読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年9月発行 広報よみたん / 9頁

【見出し】読谷山風土記(九) 赤犬子宮渡久山朝章 【写真:1】

 バスの読谷線上り楚辺入口の脇(米軍トリイステイションの道向かい)に石碑が立っており、それには次のような流歌が刻まれております。
「歌と三味線の昔始まりや
   犬子ねあがれの神の美作」
  (変体仮名は書き直した)
 大意は、「昔、歌・三味線を初めたのは赤犬子で、それはまさに神様のお作りになった(ようなすばらしい)ものだ」ということでしょう。
 赤犬子は幼少のころから賢く、音楽的素質もすぐれていました。
雨垂れの妙音にヒントを得て、クバの骨で三味線のさおを作り、馬の尾を絃にして演奏したると言われております。
 成人すると、村々里々をめぐり、自作の三味線に合わせて世相を歌い、あるいは吉区を占って人々を啓蒙しました。そして人を見る目がすぐれ、北谷長老や中城若松のような人々の将来をも予見したというエピソードをたくさん残しております。
 さて、赤犬子が小さい女の子を連れて名護から帰る途中、瀬良垣に来ますと女の子が水を欲しがりますので舟大工たちに水を飲ませてくれるように頼みました。
 ところが舟大工たちはこの願いをむげに断ります。怒った赤犬子は「瀬良垣水舟」と投げ声をしてその場を去りました。
 谷茶に着き、舟大工たちに水を飲ませてくれと言うと、喜んで飲ませてくれました。
 赤犬子は感謝を込めて「谷茶走い舟」と言い残し、子供を連れて帰路につきました。
 それ以来、谷茶の舟は波を切ってすいすい走る舟になりました。
「瀬良垣水舟」と言われた後、どう言う訳か瀬良垣の舟は難破続きで、いつも水舟になりました。 やがてそれは赤犬子の呪いのためだと思った瀬良垣の海人たちは、手に手に鈷や擢をもって赤犬子を追いかけます。
 逃げて逃げて、とうとうナカハンタの大岩の上まで追いつめられた赤犬子は、もはやこれまでと杖を岩に突きたて、一筋の煙とともに昇天しました。
 その場所がこの赤犬子宮と言われております。
 以上の話の他に赤犬子は唐(中国)から五殻を伝えたということもあり、今では楚辺の守り神として祭られています。
 ここは琉球国由来記巻十四の「禰覇ノ嶽 楚辺村 神名スズナリツカサ御イベ 右 楚辺巫崇所(ぶしゅうじょ・ノロが拝む所)」ではないかと思います。
 このように、私たち沖縄の信仰では神を祭ったところは御嶽(うたき)といい、あるいは威部(イベ)といいます。しかしここは日本神道風に「宮」と名付け、神社のシンボルとしての鳥居も立っています。

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