読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年10月発行 広報よみたん / 9頁

【見出し】読谷村、初の中国現地調査 旧日本軍による中国侵略の実相(上) 総務部企画課小橋川清弘

 「戦争を起こすのも人間である。しかし同時に戦争を拒否し、平和な社会を築きうるのもまた人間である”は、これまで三回開催してきた平和創造展のアーチ門に揚げた言葉である。
 ここで言う「人間」は、中国・東南アジアをはじめ世界の人々をも含んだ総体としての「人間」なのである。
 国際化時代の今日、平和問題は常に世界的な視野に立って考えることが極めて重要になってきた。
 県内で初めて「平和条例」を制定した読谷村(今年四月一日施行)、その平和事業の一環として初めて日本の中国侵略の実相を調査すべく現地に赴いた。
 そこには耳を疑い、日を覆いたくなるような惨状が今日的情景としてあった。
生々しい幸存者証言
 唯一地上戦が行われた沖縄、世界で初めて原爆を投下された広島、そして長崎。悲惨な体験を持つ人々にとって戦争は過去のものではなく、今日でもまだ心の痛みをともなって思い出されている。しかし私たちはこうした「被害者としての戦争」だけを認識すればいいのであろうか。
 沖縄戦に続く広島、長崎で終結した十五年戦争は、日本軍の朝鮮半島、中国、東南アジア諸国への侵略という史実の中にこそその実相がよく現れている。そこに登場する日本人は被害者ではなく加害者である。中国への侵略を通して加害者の立場を認識し、被害を受けた人々の心の痛手を知ることは極めて重要である。
 たった一度の現地調査で全てを知ることなどできる由もない。しかしこれから紹介していく幸存者の証言の中に、日本軍の中国侵略の全体像の中の一部が見えて来る。
 「幸存者」とは、日本軍による虐殺の現場から幸いにして生き残ることができた数少ない人々のことをいう。
 ここに登場する夏廷沢、夏維栄の両氏は、旧満州の撫順炭鉱のすぐ近くにある平頂山という村での日本軍による虐殺現場からの幸存者である。証言にはいる前にその平頂山事件がどういうものであったのか、そこから始めよう。
 一九三一年九月十八日夜、日本軍は瀋陽(旧奉天)の柳条湖で満州鉄道を爆破し、それを中国軍のしわざとして攻撃を開始し、東北地方全土の占領に乗り出した。
 石炭、鉄鋼などで有名な撫順はその瀋陽から東北に四〇㎞ほど離れたところにある。この地方で活躍していた坑日義勇軍ゲリラが平頂山と隣村の千金堡あたりから撫順の日本占領軍拠点に攻撃を加えた。ゲリラは攻撃ののち直ちに徹退したが、日本軍はゲリラの集結した平頂山一帯の住民を「匪賊と通じている」と断定した。そして、撫順炭鉱を警備する日本軍憲兵と警備兵たちは、そのすべての住人を一人残らず殺すことに決めた。一九三二年九月十六日、約三、○○○人の住民虐殺計画を実行した。
これが平頂山事件である。
 夏維栄さんの叔父夏廷沢氏の証言によって本田勝一氏はその著書「中国への旅」で当時の様子を再現しているので引用すると、第一陣で現れた三台のトラックは図のような配置で止まり、満載されていた兵隊たちは西側の丘を除く三方に展開して集落を包囲した。西側の丘は崖になっていた。日本兵たちは住民を追い立て、この崖ぎわに集めるかたちで包囲の輪をちぢめていった。日本軍は三、○○○人余りを殺したあと、石油で焼き、さらにダイナマイトで崖を崩して死体を埋めた。
 まだ独身だった夏廷沢さんは、この時実兄(当時二九歳)の家に寄宿していた。兄の家族は、妻(同二五歳)と長男(同三歳)の三人だった。以下、夏廷沢氏が連れて逃げた兄の長男、夏維栄氏の証言を聞くことができたので紹介しよう。(紙面の都合で要約しました。以下同じ)
 私の叔父は当時二七歳で炭鉱の労働者でした。一九七六年七月に亡くなりました。事件が始まったとき私の家で叔父を含め四人が日本兵に見つかり無理やり連れていかれました。村民が集められている所から少し離れた所に機関銃が並んでいました。最初は全部黒い布で隠していました。村人の一人が村の方から煙が立ちこめているのを発見し声を出しました。そうすると日本軍のある軍曹が東へ向かって刀を持ち動きました。機関銃の履いも取り払われ一斉に発砲が始まりました。最初の射撃により前にたっていた人々が倒れました。一部の村民は走って逃げようとしました。石を拾って投げようにも石もなく、みんな草をむしって機関銃めがけて投げていました。叔父も何回か逃げようと試みましたが逃げきれず、私たちの所に戻ってきました。叔父が戻ってきたとき、父は私を抱いて座っていましたが機関銃の弾が頭にあたって死んでいました。叔父は「お兄さん、お兄さん」と呼びました。次に叔父は母の所にいってみました。母はまだ(重傷の状態で)生きていましたが、私の方を指して叔父に宜しく頼むというふうでした。私は母の方によって「お母さん、お母さん」と叫び、近寄ろうとしたのですが、母は私の安全のため足で私を蹴り、近付けようとしませんでした。しばらくして母も亡くなりました。母を求めて泣き叫ぶ私を無理やり抱きかかえ(窪地から)逃げました。
 後ろを振り返ると煙がいっぱいでした。コーリャン畑の中で叔父は横になり休みましたが、私はいつも「お母さん、お母さん」と哭いていたので、叔父は安全のため私の口を塞ぎました。叔父が言うには口を塞いで窒息死する方が日本軍に殺されるよりはましだと思ったそうです。その後私はその叔父の手で育てられました。

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