読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1991年11月発行 広報よみたん / 12頁

【見出し】読谷村、初の中国現地調査 旧日本軍による中国侵略の実相(中)総務部企画課小橋川清弘 【写真:記念碑と日本軍上陸の川沙岸(向こうは楊子江)】

上海から
 今回の旅のスタートは上海でった。近代的なビルが建ち並び、中国の近代化政策の最先端を行くと同時に、人口が一、一〇〇万人と巨大中国の中でも最も大きい街である。そして、古くから日本との交易も盛んで一八六三年には日本領事館も開設された。その後多くの日本企業も事務所を構え、租界地では国民学校や病院もあり多くの日本人が海を渡った。日本人にとって馴染みの深いこの街も日中戦争では大きな痛手を残した。
 満州事変が進行中の一九三二年、上海の日本海軍陸戦隊が中国軍と交戦し第一次上海事変が勃発。大激戦の末、日本軍が勝利し停戦協定が結ばれた。国内における二・二六事件(一九三六年)で、軍部による政権掌握により益々戦争遂行の道へと日本は進んだ。そして翌年、一九三七年七月七日、北京効外の盧溝橋事件で日中全面戦争へ突入、天津や北京を占領。こうした日本軍の進撃に中国は国民党軍と紅軍の内戦をやめて(国共合作)坑日民族統一戦線を結成し、本格的な戦争状態に入った。そして、第二次上海事変となった。八月一三日の海軍陸戦隊と中国軍の交戦が始まると、日本軍の参謀本部は上海派遣軍を増派し、川沙(上海の北方、楊子江岸)から敵前上陸を敢行した。防衛庁の「支那事変陸軍作戦」によれば、この作戦は次のように記されている。
 第一一師団は、二三日零時、川沙河口沖の、錨地(泊地)に進入し、五時ころ川沙鎮北方地区に強行上陸を開始し、江岸の敵を撃退して、午後、川沙鎮付近をおおむね確実に占領し羅店鎮攻撃を準備した。
とある。次に登場する張家発さんはこの川沙上陸から羅店鎮占領に至る日本軍の攻撃の中を生き残った幸存者である。
 羅店鎮は七〇〇年の歴史を持っています。一九三七年八月二三日、川沙というところがらたくさんの日本兵が上陸してきました。その後七日間の激しい戦闘が繰り広げられました。中日両国の投入した兵力は二、三万人にもなりました。当時の戦争はとても残酷な状況でした。逃げることのできなかった中国人はほとんど日本軍に殺されました。
 私の家はこの道の向こう側ですが、この辺りは日本軍が占領してからほとんど焼き払われました。当時私は九歳でした。私の家族は日本軍が上陸していち早く西の方へ逃げたのですが、逃げる途中三人が死にました。一人は私の従兄弟で女の子でしたが食べ物がなく病気で死にました。あとの二人もまだ幼い子供でしたが死にました。当時一二歳だった姉は日本軍に強姦されましたが、今でも生きています。
 さて、七日間の戦闘が終ってすぐに帰ってきましたが、私の村の中には約五〇体の死体がありました。中には妊娠した三〇歳くらいの女性がいましたが、腹を切られ赤ちゃんが引き出されて死んでいるのもありました。これは、私が直に見たことであります。
当時国民党軍は、ここで日本軍と大変激しい戦闘をしました。国民党軍の当時の将軍が二、三年前ここに来て話をしました。日本軍が昼間に羅店鎮を占領し、夜には国民党軍が取り返し、翌日また日本軍に占領されるといった激戦だったと語っていました。日本軍は羅店鎮を占領してからこの建物(幸存者証言は宝山区羅店鎮人民政府で聞いた、人民政府とは役所のこと)の近くに司令部を置きました、私が通っていた小学校は日本軍の監獄に使われましたが、そこでは昼となく夜となく悲惨な声が聞こえていました。また、この建物があるところは当時空き地で、日本軍はここで人民を殺害しました。
 この近くに一つの記念碑があります。国民党軍と日本軍の空中戦があり、国民党軍の兵士が撃ち落とされ、パイロットが負傷しました。当時ここの病院の院長と看護婦三人が治療しようとしましたが、四人は日本軍に捕まり院長は殺されました。日本軍はその死体を六つに切断しました。死んでからも院長は侮辱を受けたのです。そして、三人の看護婦も殺されました。その勇気を持って闘った院長と三人の看護婦を記念するために建てたものです。
 証言を聞いて後私たちはその記念碑と上陸地点を見に行った。
川沙にある記念碑の表には
 小川沙侵華
 日軍登陸■
裏には、日本語になおすと次のように刻まれていた。
 一九三七年中国人民坑日戦争が勃発した。八月一三日日本軍は上海を侵略しました。そして、八月二三日(旧暦七月一八日)夜半ごろ川沙河口に上陸しました。
 無垢の群衆二、四四二人を殺しました。ここ羅経地区において一〇、九〇八の建物を焼き払いました。当地の人民はこの日を「総忌日」と呼んでいる。
 ここでこのことを特に石碑に刻み永久に忘れない。
        一九八五年九月三日
        上海市宝山区人民政府

  歴史メモ
 日中戦争は、いくつかの代表的な戦闘や事変と呼ばれる戦争がつながってその全容を成している。私のレポートで関係してくるものを中心に年表ふうに記すと、
一九二八年 (昭和三年) 張作森爆殺事件
一九三一年 (昭和六年) 九月一八日
  柳条湖で鉄道爆破、奉天(落陽)占領。
  満州事変始まる。
一九三二年 (昭和七年) 一月二八日
  第一次上海事変始まる。
  同年九月一六日  平頂山事件発生。
一九三七年 (昭和一二年) 七月七日
  盧溝橋事件 (日中全面戦争始まる)
  同年八月一三日
  第二次上海事変勃発
  同年八月二三日 川沙より日本軍上陸
  同年一二月一三日 南京占領(以後数ヵ月間におよぶ南京大虐殺へ)

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