伊良皆の尚巴志王の墓がある山の南裾にサシジャーという井戸があり、その名はあたり一帯の地名にもなっています。
サシジャーとは多分、佐敷井(川)ということでしょう。前回でも述べたとおり、隣の山は通称サシチムイ(佐敷森)ということからして、サシジャーはサシチジャー(佐敷井)の音韻変化(脱落)と考えられるからです。
ではどうしてこの地に、遠い島尻の佐敷の名がついたのでしょう。
それはやはり尚巴志王の故郷佐敷にちなんでつけられたと思います。
尚巴志の祖父は伊平屋島出身の移住者ですが、孫である彼の時代までには佐敷の按司にまでのし上がっていました。
琉球の編年体史書『球陽』によりますと彼は「身体きわめて小さく長さ五尺にも満たず。」
佐敷森の南向きのところ-
そこは尚巴志の墓とは反対向きになるのてすが-平田子や屋比久子の墓があり、うっそうたる木々の緑に包まれ、太陽の光も漏れてこないほどです。
こうした深い森の木々が水源涵養林の役目をはたしているのでしょうか、サシジャーはどのような旱魃の時でも水が涸れることはありません。
こうした素晴らしい井戸水ではありますが、なにせ軍用地の奥深くにあるものですから利用者も少なく、今では若い人たちが車やオートバイを洗ったりするのに使われているだけです。
暑い夏の一日、井戸のそばに降りたつと、二ーブガー(柄杓で汲める井戸)は清冽な水をたたえ、井戸縁につけられた鉄パイプからは絶えず涼しげな音を立てて清水が流れていました。王者一統の死後の悲話を知らないかのように…。
故に俗に皆「佐敷小按司と称す」とあります。この人こそやがて琉球の三山統一という大偉業をなしとげた神号「勢治高真物(せじだかまもの)」であります。
しかし時代の流れは非情で、名だたるこの王が眠る天山霊御殿(天山陵)も第二尚氏による焼き討ちにあい、あわやお遺骨も、という時に平田子・屋比久子らに奉護され、読谷山のこの地に葬られたということです。
この地に佐敷森とかサシジャーという名を付けたのも、この偉大な王者たちへの弔いの心をこめ、その故郷ゆかりの名をつけたのではないでしょうか。
なお、難を避けこの地に移葬された訳は、尚巴志の妄腹の子孫たちを頼りにしてのことだったと言われています。
すなわち尚巴志が北山討伐の際の行き帰りに喜名村に泊まって、その村の東松田の娘を愛し、その子孫が読谷山地方に広がっていたということです。