【見出し】読谷村、初の中国現地調査 旧日本軍による中国侵略の実相(下)総務部企画課小橋川清弘 【写真:銃弾の跡が残る(南京大虐殺資料館にて):ズボンを上げ、撃たれた足を見せてくれたHさん:南京の歴史を彫ったレリーフの一部(南京大虐殺記念資料館にて)】
南京大虐殺
最近南京大虐殺に再び脚光をあてたのは、石原慎太郎衆議院議員であった。アメリカの月刊誌「プレイボーイ」一九九〇年一〇月号(日本語版、同十一月号)で、「日本軍が南京で虐殺をおこなったと言われていますが、これは事実でない。中国側の作り話です。これによって日本のイメージはひどく汚されましたが、これは嘘です。」と発言。中国をはじめ米国内の中国人や日本人からも非難の声が相次いだ。
そして、この石原発言に触発される形でニューヨークの中国人団体「南京虐殺の犠牲同胞追悼同盟」がニューヨーク・タイムズ紙に意見広告を掲載した。そして歴史学者の間で”幻のフィルム”とされていた米宣教師マギー牧師が撮影した16㍉フィルムが発見され、全世界にその一部がニュースなどで紹介され大きな反響を呼んだ。県内でも各紙で報道されたので周知のことと思う。
もう一つ沖縄との関わりで言えば、牛島満司令官とともに自決した長勇参謀長と南京大虐殺との関係も見逃せない。
それは、一九八九年四月に発刊された「裁かれた南京大虐殺」(晩聲社)の中で教科書裁判の証人として立った藤原彰氏の意見書の中で沖縄戦の時の参謀長 長 勇 が南京大虐殺時には中支那方面軍情報課長(中佐)として登場し、「南京の下関(シャーカン)に中国人が、一二、三万人いるがどうするかという質問に対し、長中佐は『ヤッチマエ』と応えたとする内容が紹介されている」のである。
南京大虐殺と沖縄戦での日本軍による住民への残虐行為とを直接結び付けることはできないものの、長勇という人物を通して何か見えてくるものはないかという視点を持つことも無意味ではない。
このことについて今回の調査で直接関係するものは見聞できなかった。しかし石原慎太郎氏のデッチ上げ発言に対する中国の人々の反駁はかなりのものであった。以下、南京の大虐殺の様子と中国の人々の憤りの証言を紹介しよう。
南京大虐殺とは、一九三七年一二月一三日、日本軍が当時の中国の首都南京を攻略、約二ヶ月にわたって一般市民らに加えた大規模な略奪、放火、暴行、殺害事件のことである。この時の犠牲者は、一九四八年十一月の極東軍事裁判の判決では二〇万人以上、中国側の発表では三〇万人とされている。南京大虐殺の責任者として、中支那方面軍司令官松井石根大将が戦後、A級戦犯として絞首刑になった。
気温三八度炎天下の南京に八月十四日のお昼ごろ入った。南京師範大学の高興祖先生(歴史学教授)の案内で市内の虐殺現場を訪れ、その晩、独自取材という形で幸存者の証言を聞くことができた。非公式の会合での証言であり実名を避け以下内容を紹介しよう。
今でもびっこをひき、歩くことも大変そうなHさん(七四歳・女性)
日本軍が入ってきた時、正に無条件無差別殺りくだった。私は子供が生まれてまだ二ヶ月だった。ちょうどおむつを洗っていたが銃弾が足にあたり、その後意識がなくなった。治療を受けたが、三年間はベットから起ききれなかった。その後も貧しい生活だった。精神的にも苦しかった。日本は罪を認めて、言葉だけでなく賠償もしていただきたい。
日本軍によって殺された南京市民の死体を処理させられたことのあるSさん(七一歳・男性)
難民区にいて食糧もなく、おかゆをもらいに行ったら、仕事があるがするかと言われた。その仕事をすれば給料はないが食糧を与えると言うことだったのでやることにした。その仕事とは死体を処理することだった。トラックにムシロで死体を丸めて載せ、準備されていた大きな穴に埋める。そうしたことを一ヶ月ほどやった。
一番悲惨だったのは女性で、強姦されて後に殺されたようだった。ベッドの上に両脚を広げて縛られ、局部には瓶が詰め込まれていた。死体を処理した場所は、南京城の南側中華門の辺りだった。死体を集めたのは家の中が多かったが、一軒に少なくとも七、八人の死体があった。時には道路脇に積み上げられた二〇名位の死体を処理させられたこともあった。
紙面の都合で全部を紹介できませんが、これまで連載してきた中国での現地調査を基に今月七日から始まる第四回平和創造展では特別コーナーとして展示を予定していますのでぜひ会場にお越しください。このレポートで紹介した幻のフィルム他現地での幸存者の証言を収録したビデオなども会場でご覧頂けます。