読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年5月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷山風土記(17) 比謝橋碑文 渡久山朝章 【写真:1】

 この石碑は木の橋であった比謝橋を、石の橋にしたことを記録したものです。しかし今では摩滅がひどく、判読できないほどです。それで『琉球国碑文記』という本を元に、碑文のあらましを書いてみましょう。
 まず始めは比謝橋のある場所とその近くの景色等について書かれています。
「それ比謝村は王城の北にあり。村の南に甘井崎の茂林松樹あり。その下に一井泉ありて甘し。往返の人民まかせてこれを飲む。ゆえにこれに名付けて甘井(アマカー)という。北に諸山ありて林壑(林の奥深い所)もっとも美なり。これを望むに巍然(高くそびえ立つ様子)たるは読谷山古城なり。半ば流霞(たなびくかすみ)のごとく半ばけむりのごとし。東西に一江清水あり。この水連山より出でて夙夜(朝夕)止まず。渡口港に至りて海に入る。これに架するに橋をもってす。いわゆる比謝橋なり」
 次に、昔から木の板で杠(小橋)を架けてあったが、いつ、頃から架けられていたか分からないとしながらも、ただ一六六七年と一六八九年にわずかな修理をしたとなっています。
 ところが数年もしない内に、雨風で壊されたり、あるいは木喰い虫にやられたりして、人民はこれを修理するのに大変苦労続きであったということです。その上雨風の日には、滑ったり転んだりして安心して渡れなかったというのです。
 それで石橋にする工事を康煕丙中(一七一六)八月二四日に始め、翌年、、一月一五日には落成したというようなことが書かれています。
 なおこの架橋工事にたずさわった人数および経費は次のようになっています。

細工  二千七百四十三名
    工銀 五貫二百十一銭七分
間切夫 二万七百十八名六分五厘
    工銀 二十貫七百十八銭六分五厘
日用夫 工銀 三貫二百五十一銭

 現在の金にすると、いくらにあたるでしょうか、想像もつきません。
 それにしてもわずか六ヶ月余りで落成させたのですから、機械等もなかった時代としての工事のすばらしい進捗ぶりには驚かされます。
 工事の際の奉行は南風原親方守周と兼島親雲上兼満の二人ですが、渡り初めは南風原親方守周親子となっています。
 この碑文は、康煕五十六年(一七ー七)の春に松堂親雲上が作文したというのですから石碑もその年に立てられたのでしょう。
 もともとこの石碑は、比謝矼から牧原への道路の左側にありました。そこは民家の屋敷裏の盛り上がった所でしたが、今では道路になってしまいました。この石碑も戦災を受けて、うち捨てられていたのが発見され、一時役場に預けられていましたが、昭和三十九年(一九六四)現在地に移設されております。

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