読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年6月発行 広報よみたん / 2頁

【見出し】復帰二十周年平和行進 【写真:福祉センターを出発する平和行進団】

 復帰二十年の内実を問う「復帰二十年・平和な島をつくる5・15総行動」の平和行進団約八百人余が五月十二日、十三日に村内を行進し反戦平和を訴えた。
 Aコースの行進団は十一日に名護を出発。翌日の午後には読谷村に入り長浜区民の熱烈な歓迎を受け休息。村内行進で平和を訴え、その日は村福祉センターにて宿泊し村内の団体と交流を深め翌朝に出発。出発式では山内徳信村長が「国際貢献という美名の下に自衛隊が海外に出ていくPKO法案を許してはならない。PKOに備えるために恒常的な物資集積所、要員訓練所を沖縄県に建設するという構想は絶対に許せるものではない。PKO法案は今の若者が犠牲になるもので緊急闘争を展開することが必要。平和行進で法案廃止、沖縄基地撤去を誇りを持って訴えてほしい」と激励、これに応え行進団の玉城彰団長は「文化の香り高い読谷の地で温かく迎えて頂いて英気を養い、益々頑張る決意である。復帰二十年の節目にPKO施設の発言は言語道断。怒りは頂点に達している。腹の底からPKOの欺瞞性を糾弾し、力強く訴え反戦平和を貫いていこう」と決意表明。その後、行進団全員が怒りの拳を突き上げ、声高らかなガンバロウ三唱が行なわれました。
 福祉センターを出発した行進団は楚辺通信所、トリイ基地の基地前では立ち止まって怒りのシュプレヒコールで基地撤去を訴え、村内を行進して嘉手納町に向かいました。
昭和四十七年五月、「核抜き本土並み返還」の美名の下に沖縄の施政権は返還された。だが、在沖米軍基地は復帰二十年を経た今も県民生活に重くのしかかり、基地の存在は各面での発展の大きな障害となっている。
 日本全国土の一㌫にも満たない沖縄に依然として在日米軍専用施設の約七十五㌫が集中。沖縄本島の約二十㌫の面積を占め、基地返還は遅々として進んでいない。東西冷戦の終結、軍事大国・ソ連邦の崩壊、南北朝鮮の歩み寄りなど国際情勢は緊張緩和、和平へと大きく動いているのに、沖縄基地はほとんど変化がない。まさに”異常”な状態が続いている。
 村内にあっても村土の四十七㌫が基地に占められる中、読谷飛行場でのパラシュート降下演習が強行され続け、ここ数年、演習は中止されるどころかむしろ激化する気配すらあり、村民の生命財産は絶えず脅かされ続けているのが現状である。
 復帰二十年。私たちが求めるのは「平和で明るく、豊かな沖縄」の建設である。県民、村民一人びとりがその目標に向かって行動していきたい。

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