読谷と嘉手納の地を結ぶものとして比謝橋があり、平成三年(一九九一)五月二十七日には比謝川大橋も開通しました。しかし沖縄戦以前は写真に見るような橋もかかっていたのです。
現在の屋良小学校前の通りを北に直進すると比謝川の流れに達します。そこに架けられていた橋がこの「榮橋」で、牧原と屋良を結んでおりました。
この橋は、構造が二重になっていることから二重橋とも呼ばれていたものです。
戦前、牧原は沖縄製糖株式会社嘉手納製糖工場の主要な製糖原料生産地で、サトウキビはこの橋の上に敷設された鉄軌道(レール)の上を馬に牽かれたトロッコで運ばれていました。
川の中に立つ橋脚からは左右に大きなアーチがかかり、その上に立つ支柱が橋上部を支えている構造で、当時としては最も近代的な美しい橋でした。
建設当時は現在に比べて土木機械が発達していなかったため、もっぱら鍬・ツルハシ・ショベル・オーダー(もっこ)・ニンスクバーキ(人足ざる)・トゥルク(トロッコ)等を使った人力作戦の難工事だったということです。
特に両岸の山を切り開く掘削工事では土砂崩れも起きて、人夫の一人は土に埋まり圧死したと言われています。
昭和六年(一九三一)頃、この橋の開通式には、宇牧原の津覇さん一家親子三代(実令実義・実啓)が渡り初めをしたそうです。
付近は山原山系から走ってきた国頭マージの酸性土壌で、松の緑が美しく、春になると両岸にはケラマツツジが咲き乱れ、橋の美観に彩(いろどり)を添えていました。
それで付近の小学校の遠足地に選ばれたり、農林学校の生徒の散策の場所にもなっていました。
下のアーチの上面は、見た目よりも案外傾斜が急でしたが、はずみをつけて走れば二つのアーチを越えて対岸に通り抜けできるようになっており、悪童どもは競って通り抜け遊びをしたものです。
昭和二〇年(一九四五)、アメリカ軍が比謝川河口付近から上陸する直前、日本軍は敵の進撃路を遮断するという理由でこの橋を爆破したと言われております。結果論にはなりまずけれども、アメリカ軍の上陸作戦やその後の進撃ぶりから考えてみますと、この橋爆破がどんなに馬鹿げていたかということは誰もが思うことでしょうが、とにかく本当にもったいないことをしてくれたものです。
現在は爆破の後の残骸が少し残っており、それらを足場に、ちょっと冒険すれば対岸に渡れるようです。