比謝橋といえば橋の名で、比謝矼となると字(集落)の名となり、どちらも「ヒジャバシ」と読ませます。
さて、この写真は昭和十三年秋に旧嘉手納警察署(現名嘉病院)裏から撮影した橋を中心とした比謝矼の風景です。
写真の中央には松の木が見えますが、そこは橋の真ん中辺に当り、「従是読谷山村」という標識柱が立っていました。
「従是読谷山村」は「これより読谷山村」と読むのです。ということで、比謝矼は読谷山村の表玄関でした。もっとも現在でも読谷村の表玄関に違いはありませんが、車でさ一っと走る時代では玄関という感じはないのかも知れません。
ダムが設置されてなかった頃の比謝川は写真で見るように、満潮時には潮がさして来ました。
〈比謝橋の水や潮行逢やて戻る我身や無蔵行逢やて 今ど戻る〉
比謝橋の川水は海水と出合って戻るが、私は愛しい人と逢って今戻るのです、ということでしょうか、今はそのような風情はありません。
川向こうの山裾に見える三つばかりの長い建物は牛市(ウシマチ)で、中頭各地の畜産農家の牛買いたちで連日賑わいました。
昭和十二年(一九三七)には中頭郡畜産組合比謝矼家畜市場となり、事務所も設置されました。 一方、読谷山村産業組合もここにおかれ、村中で製造された黒糖が搬入され検査されて積み出されていきました。
牛や島産の材木、それに大島材や薪炭はほとんどが山原船や機械船でここに運ばれて荷揚げされたものです。そういうことで比謝矼は陸の玄関だけでなく、水上の玄関口でもあったわけで、当然町方を形成していったのです。
昭和十六年(一九四一)頃は戸数が百三十戸で、ここには村営屠殺場をはじめ、卸小売りの雑貨商それに医院・旅館・料亭・飲食店(食堂)・鍛冶屋・馬車製作・所理髪店・風呂屋・装蹄業等が並んでいて嘉手納をしのぐほどの賑わいぶりでした。
写真中央の家の前には材木が立て掛けられていますが、それは材木店(建材屋)です。
山紫水明の地という言葉がありますが、周りは緑の丘に囲まれ、水はあくまで澄みとおり、本当に美しい景観を展開していたものです。
昭和十二年(一九三七)には新聞社主催の南沖縄八景の一つに選ばれ、それを記念して沖縄煙草小売商組合によって「南沖縄八景比謝川渓流」の石碑が現琉球バス嘉手納出張所の裏に立てられていました。その石碑は現在嘉手納町中央公民館に保管されています。