北(読谷山)飛行場は、戦局も押し詰まった昭和十八年(一九四三)夏、日本陸軍航空本部により計画され、軍司令部の航空主務者釘宮参謀や松原吟司大尉などが偵察をおこない、建設業務は民間土建業者によって実施されました。
建設状況について、防衛庁戦史室の資料には次のような記録があるようです。
「航空基地設定に充当された飛行大隊は、基地設定用の器材が整備されていなかったため、スコップ、十字鍬、もっこ、馬車など原始的器具を利用するほかなく、多数の一般住民の労力に依存しなければならなかった。各飛行場(筆者註=北・中・南・伊江島・宮古・石垣の各飛行場)とも平均三、○○○名の民間人を人夫として雇傭することを目途として計画が推進された。人夫及び荷馬車の雇傭は各町村に割り当て、十日~一カ月交代制で行われ、緊急工事のため作業は一日十一時間にも及んだ。」
記録の上でも無茶な工事の様子がうかがえますが、実際に工事に従事した人々の苦労は並大抵ではありませんでした。
北飛行場の建設工事は、陸軍航空本部と国場組の契約により、球九一七三部隊の指揮の下に、一年六ヶ月余にわたって進められました。
当時設営工事管理責任者の地位にあった国場幸吉氏の話では、おおよそ次の通りとなっています。
「読谷山飛行場の工事予算(請負い額か)は二千三百万円でした。予算規模だけから言っても、沖縄では歴史上かつてない桁はずれの大工事でした。面積も東洋一といわれ、七十三万坪で、二千メートルの滑走路が東西と南北に二線が敷設され、飛行場の周辺には戦闘機の誘導路がはりめぐらされ、その誘導路は地下堀込みのコンクリートの格納庫に通じていました」
(読谷村誌より、但し文体は口語文に書き直しました)
さて、国場氏の言う「地下堀込みのコンクリート格納庫」ですが、それは現在残っている掩体壕のことではないでしょうか。
地下堀込み式ではありませんが、分厚いコンクリート造りで、入口はかまぼこの切り口みたいな口を開いていますが、奥の方に徐々にしぼりこまれた構造になっています。
工事に参加した人の話によりますと、当時は仮枠などもなく、一応土を積み上げ、その上にコンクリートを流したということです。
考えて見ますと悪夢の時代の遺物ではありますが、時代の証言者とはなり得るとは思います。写真でご覧の通り、今では牛小屋になっています。
ところでこの構築物は通称掩体壕と呼ばれていますが、機体を掩う(おおう)ということでは分かるのですが、壕とは変ではありませんか。壕とは、堀、溝のことなのです。