読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1992年11月発行 広報よみたん / 9頁

【見出し】読谷山風土記(23) サイレン 渡久山朝章 【写真:1】

 サイレンとは、元々ギリシア神話に出てくる声の美しい半人半魚の海の精であると言われております。ところが現代のサイレンは、美しい声どころか、交通違反車を追いかけるパトカーのあたりはばからない音であったり、火事で出動する消防車の不気味な音だったりします。
 サイレンは「穴のある円板を高速度でまわして音を出す信号器、またはその音」と辞書には書かれています。サイレンはそれ自体大きな音を出しますが、信号を遠く広く伝えるためには高い所に設置しておくと効果的ですので、サイレンやぐらが建てられました。
 写真で見るのは、元古堅尋常高等小学校に設置されていたサイレン櫓(やぐら)ですが、一般的にはサイレン台といっていました。
 このサイレンは記録によると昭和十一年(一九三六)十二月に設置されています。当時の古堅校区男子青年団の寄付によるもので、経費は百五十円かかったとあります。
 サイレンは時報として午前五時に起床を告げ、七時には登校の合図をしました。午後は五時に家庭学習時間を伝え、九時には就寝時間を吹鳴しております。
 その頃のサイレンは手動式で、小使さん(用務員)が櫓に上って行って、力一杯クランクを回しますと、櫓は大きく揺れました。
 設置当初、上級生たちは面白がってサイレン回しをさせてもらっていましたが、彼らの力では力強い響きは得られず、小使さんがやり直しをしました。
 サイレンで時報をした結果「学区域に於ける時の標準となり、時間尊重・早寝早起奨励の原動力となりつつあり」と書いてあります。
 サイレンは字長浜も独自のものを持っていたということです。
 昭和十一年十二月、フィリピン在住の長浜出身者は、郷里にサイレンを贈ることを決議し、翌昭和十二年寄付金を郵便為替で送金をしています。
 『在比字長浜親善同志会々務録』によりますと、「会員総人数三十七名」で「一名宛金参比貨(三ペソ)寄贈」とありますので、百十一ペソ位になったことでしょう。当時の為替レートは百ペソが百十円ですから、寄付総額は約百二十円位になったことと思われます。
 贈られた資金でサイレンを購入し、共同売店の前に杉材で五メートル高さの櫓を建て、そこにサイレンを設置しましたが、吹鳴開始年月日の記録は残っておりません。
 やがて戦争が沖縄に近づくにつれ、サイレンは「訓練警戒警報」から「訓練空襲警報」の合図に使われ始め、ついには本物の「警戒警報発令」から「空襲警報発令」の通報をするようになり、最後は「空襲警報解除」の吹鳴もなくして戦火に消えてしまいました。

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