あらゆる生き物は水無くしては生きられません。この地球は水がある星だからこそ万物も住めるというものです。生物の一員である人間も例外ではありません。それどころか、陸の上でどの生物よりも水を多く必要とするのは人間ではないでしょうか。
沖縄での古代の村のことを「マキョ」といったようですが、それは守護神の鎮(しず)まる御嶽(ウタキ)を腰当て(クサティ)として集落を構えたということです。
そのことはまた、水とも深い関係があったと思われます。ということは御嶽(ウタキ)は普通森にあり、その麓(ふもと)には泉などが多いからです。
やがて人々は平地にも集落を作りますが、その時もやはり水のある土地を選んで行ったことでしょう。
昔から波平の集落を取り巻く抱護林(ホーグ)に沿うて十五ヶ所に共同井戸があったということですが、その内、後井戸(シーリガー)は読谷小学校用地に、蓋井戸(フタガー)は読谷消防署敷地に、田和多井戸(タータガー)は個人用地に、御願ヌ井戸(ウガンヌカー)は読谷中学校用地に入り、その他三つの井戸とともに姿を消しました。
現在残っている井戸は、仲ヌ井戸(ナカヌカー)、川ヌ上ヌ井戸(力ーヌイーヌカーグワー)、大井戸(ウフガー)、亀倉根ヌ前ヌ井戸(カミクランニーヌメーヌカー)、武士井戸(ブシガー)、大屋井戸(ウフヤーガー)、新井戸(ミーガー)、そして写真にある湾田井戸(ワンダガー)ということです。
かっての湾田井戸は、老松の生い茂る湾田松尾(ワンダマーチュー)の麓(ふもと)にあり、苗代田を前にひかえたのどかな美しい風光の中にありました。
絶えることなく湧き続ける澄み切った軟水は、最高の飲料水として知られていました。
伝えによりますと明治三七年(一九〇四)の七ケ月の干ばつ(ナナチチヒャーイ)の時、他の村では水の奪い合いさえあったということですが、波平では湾田井戸をはじめとする村抱護林(ムラホーグ)の十五の共同井戸の水を分け合い、譲り合って七ヶ月の早魅(かんばつ)をしのいだと言われます。
(参考 新垣秀吉さんの手記)
このような井戸は村の産井(ウブガー)と呼ばれ、水は新生児の産湯や水撫(ウビナディー)にはじまり、末期の水に至るまで限りない恵みを村人たちに与えてきました。
そして敗戦の翌年(一九四六)、帰村を許された村民は波平と高志保の二つの集落にしか住めないで、大方の読谷南部の人々は波平にお世話になり、この湾田井戸の水で渇きを癒し、命をつないだことでした。このことは忘れてはならないと思います。
世の多くの変遷にあいながらも、湾田井戸は、今でも清澄な水をたたえています。