読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1993年2月発行 広報よみたん / 8頁

【見出し】読谷山風土記(26) 佐久川いも発祥の地 渡久山朝章 【写真:1】

 読谷山は昔から農業で知られ、中でも甘蔗(サトウキビ)や甘藷(イモ)の名産地の名をほしいままにしてきました。
 読谷山が名産地になった訳は、土地が広いとか、土壌が甘藷や甘蔗作りに適しているという理由からだけではなく、それ以上に読谷山人(ユンタンジャンチュ)の勤勉さと創意工夫にまっところが大きかったのです。
 たとえば甘藷に例をとってみますと、戦前もっともおいしい甘藷との評価を受けた暗川(クラガーイモ)は楚辺の地で作られたものであり、又吉(マテーシーイモ)は喜名で又吉真徳さんが作り出したものなのです。
 そして我謝栄彦著『沖縄における甘藷の育種事業とその業績の概要』の中では、もっとも重要視され、栽培面積が広く品質収量ともすぐれたものとして佐久川種が紹介されているようです。
 佐久川種を育成した人は、字比謝の佐久川清助さんで、彼の姓をそのまま取って佐久川種(方言でサクガーイモ)と言っているということです。
 佐久川種は明治二七年(一八九四)頃、泊黒(トゥマイクルー)・暗川(クラガー)・名護和蘭(ナグウランダー)を混ぜて植えた畑で自然に結んだ種子が最初だといわれます。
 佐久川さんはこの種子を蒔き、蔓(つる、かずら)が三十センチ程伸びたところで良いものを十本位選んで育て、さらにその中から良いものを六本選び、二年目に山の痩せ地に植えてみて比べ、その後普通の畑に栽培して三種を選び出し、それをよく肥えた土地と痩せた土地に栽培を繰り返し、ついに一つの新しい品種を固定したということです。
 このように佐久川さんは熱心に研究観察、栽培を繰り返し、佐久川種を作り出すまでには実に八年間もかかったというのです。
 佐久川種は早熟種で、夏植えに適し土質を選ばない多収品種で、大正七年(一九一八)の甘藷品種別作付面積は、沖縄全域で十四・四%にも達した程広く栽培された訳です。
 大正一〇年(一九二一)、農事試験場で佐久川種から佐久川一三号が選抜され、大正一四年(一九二五)頃の奨励品種は、沖縄一号から七号までと、それに真栄里一六号、佐久川一三号の九品種となりました。
 昭和九年(一九三四)、沖縄百号他の新品種が奨励品種となるまで、佐久川種やそれから育成された佐久川一三号は沖縄県の奨励品種であったのです。
 佐久川種はこのように明治・大正・昭和の長い年月にわたって食料として、あるいは豚の飼料として県民の食生活に計り知れないほどの貢献をしてきました。
 政府は明治百年に当たり全国の農林漁業先覚者を表彰し、佐久川さんもその栄誉に浴しました。
 写真はこの表彰を記念して建てられた『佐久川いも発祥の地』の石碑です。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。