野国総管は北谷間切野国村(現在の嘉手納町野国)の人です。
総管とは進貢船に乗り込んで仏菩薩をまつり、船中での庶務にも当たる役職であったと言われます。
彼は中国に派遣され、一六〇五年つとめを果たして帰国する時、初めて琉球に甘藷を持ち帰り、ンムウフシュー(甘藷大主)の名でも広く知られています。
イモ(甘藷)が伝わる以前の琉球では、食糧といえば五穀(米・麦・粟・黍・豆)が主なものでした。しかしそれらの作物は台風に弱く、琉球ではしばしば飢饅に見舞われていました。
総管は五穀の補いとして甘藷を持ち帰ろうとしましたが、中国ではその持ち出しをきびしく禁止していました。彼は苦心の末、鉢植えにして持ち帰ったのですが、やがて儀間真常の尽力もあって、あっという間に国中に広がりました。
甘藷の伝播普及によって琉球の食糧事情は大飛躍を遂げ、飢饅を免れ、戦前の沖縄農村ではむしろ甘藷が主食の座を占めているほどでした。
また戦争中や戦後の窮乏時代にあっても甘藷が多くの人々の命をつないだことは、今でも記憶に新しいところです。
総管の墓は野国海岸(現カデナ・マリーナ内)にありますが、墓地には一七五一年に総管の子係比嘉筑登之が石碑を建て、その由来を記し、昭和一八年には沖縄県産業組合連合会が「総管野国先生の顕彰碑」を建てて報恩感謝の誠を捧げています。
総管の偉業に対しては、読谷山でも長浜・親志・古堅・喜名などでは祠(ほこら)を設け、あるいは石碑を建て、遺徳をしのび感謝のお祭りをしています。
写真は喜名の「野国総管之碑招魂」です。
建立は昭和一〇年(一九三五)となっています。(写真はナカバル時代のもの)
当初、この石碑は県道(現国道五八号線)の東側、メーヌマーチーュー(前の松尾)に建てられていましたが、戦後同地が米軍用地になったためナカバル(中原)二六〇番地に移され、さらに再度移転を余儀なくされ、メーヌマーチューに返ったと言われます。
お祭りは喜名が清明の頃で、長浜が三月一六日、古堅が三月頃、そして親志が旧二月二日・旧五月のウマチー、そして九月九日となっているようです。
さて、今では沖縄でも甘藷のことをサツマイモという名で呼んでいます。これは東京あたりで呼んだ名が全国に行き渡ったためでしょう。しかし薩摩(さつま)、つまり鹿児島へは、沖縄から渡っていったのです。沖縄が本家本元、元祖ですから、私は本家本元の人がサツマイモと呼ぶことは野国総管に失礼に当たるのではないかと思うことがあります。