波平東門(ハンジャアガリジョー)を入った一帯の広場は東大庭(アガリウフナ)と呼ばれ、かっては一角に松の巨木が偉容を誇っていました。松の幹は大人が三人手をつないで、やっと取り巻くほどの大きさでした。
戦争が終わって、読谷郵便局が開局したのもこの松の下陰だったのです。
この松は樹齢二百数十年と言われていましたので、植えられたのは蔡温の林業政策と深いかかわりがありそうです。
そうなるとこの松は、波平の幾世代の人々とともに沖縄の世のうつろいを見、戦争を体験してきた生き証木だった、と言っても過言ではないでしょう。
薩摩の圧政に苦しむ人々に涙し、琉球処分の騒ぎを哀れんだこともあったでしょう。
戦時中はアメリカ軍の飛行機(敵機)の来襲を見張る対空監視哨ともなり、あげくは艦砲弾の破片も受けました。
それでも戦火を生き抜き、なお雄々しい姿を留めたのは、区民に力強く生きることを教えたかったのでしょう。
この松がハタクンジマーチ(旗括立松)と呼ばれたわけは、「旧歴八月十五日のジュウグヤアシビの時、波平人のチチシミ(慎重心の強さ)を象徴する『開運守護龍』の大旗頭(ウフバタ)、並びに真心を合わせて共に物事を成し遂げる戒めのことば、いわゆる『和衷協力』を強調する『小旗頭(クウバタ)』、この二旗の旗頭を括り立てることから誰いうとなく、ハタクンジマーチとよぶようになったといわれている」と新垣秀吉さんは説明されています。
しかし、さすがの巨木も寄る年波とマツクイムシ、すなわちマツノマダラカミキリの幼虫の被害には勝てず、ついに一九八一年三月波平の人々に惜しまれながら大往生を遂げてしまいました。
波平ではこの松の跡継ぎとして一九九二年一月五日、ハタクンジマーチ(二世)を植え石碑を建ててあります。
古い方の写真は一九八○年八月、マツクイムシの被害にあった枯枝を切り落とす作業をしているところで、他の一つはハタクンジマーチ(二世)と石碑です。