渡具知集落の比謝川河口を見下ろす道路脇に、写真で見るような記念碑があります。
これは戦争で消えた「沖縄海底電信」を記念する石碑で、昭和六十三年六月に電気通信関係有志一同によって建立されています。
碑には次のような説明文がついています。「明治二十九年(一八九六年)鹿児島・沖縄間に海底電信線が敷設された。ここ、読谷村渡具知の浜に陸揚げされ、那覇とは架空電信線で結ばれた。 これが、沖縄における電信線のはじまりである。
日本の電信創設より二十七年遅れて、沖縄と県外と直接に電報を送受することができ、孤島苦を抱える沖縄に新しい文化をもたらした。更に、明治三十年には石垣島経由の台湾線、明治三十八年には南洋ヤップ島の海底電信線がこの浜に陸揚げされ、海外通信にも大きく貢献した。
以来、島内の通信線も整備されたが、残念ながら、去る第二次世界大戦で、これらの海底電信線施設は、破壊された。
私達は、海底電信線が、半世紀の間沖縄の政治、経済、文化の発展に果たした役割と歴史の担い手であったことを高揚し、ここを沖縄海底電信線のはじまりの土地として記念碑を建立するものである」 この説明では単に明治二十九年に敷設された、としかありませんが、実はその二年前の明治二十七年、日清戦争が起こり、沖縄と本土を結ぶ電信の必要性が大きく浮かび上がっていたのです。
それ以前にも県民は電信線敷設を国会に請願していたのですが、財政上の理由で延び延びになっていたのです。
明治二十八年四月、日清戦争後の講和条約で台湾が日本の領地になりますと、いよいよ本土・沖縄・台湾を結ぶ軍事用海底電信線の敷設が決まったのです。軍事用ではありましたが、県民の請願もあって軍事通信のかたわら公衆通信も行われていきました。
この工事は英国グラスゴー・ロブニッタ杜によって建造された沖縄丸によってなされました。
沖縄丸はロンドンで電線を購入し五月四日出航、六月二十七日長崎に到着、ただちに工事に着手しました。
鹿児島県大隅半島大浜から奄美大島を経由して沖縄までの四二〇海里の敷設を八月十三日には完了しました。
翌年の五月三十日には四九〇海里(八五四・九キロ)の敷設で台湾と結び、後年はヤップとも結ばれました。
さて、この陸揚げ地は、字渡具地前原七一六番地で、渡具地バンタの下、比謝川河口に臨んだデンシンヤー(電信屋)でした。
現在この石碑の建っているすぐ下に当りますが、今では水没して跡かたもありません。