読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1993年12月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷山風土記(35)シラシ御嶽 渡久山朝章

 一六三八年(寛永十五)、徳川幕府は長崎港外に遠見番(とおみばん)というものをおきました。それは異国の船が百海里位まで進入して来たとき、ただちに長崎に通報するためのものでした。
 沖縄では一六四四年(正保元)尚賢王時代に、薩摩藩の示達を受けて、久米・慶良間・渡名喜・粟国・伊江・葉壁(伊平屋)の各島に「峰火の制」として設けられました。
 その後、海に面した各地や宮古・八重山にもおかれ、沖縄本島中部では、西原・読谷山・勝連・与那城の各間切にも設置されました。
 遠見番の番役はサバクイ(捌庫理)の指揮の下で、進貢船や接貢船が帰って来るのを番所に通報するのが役目でした。
 通報の方法は、見晴らしの良い小高い丘の上で峰火(狼煙、のろし)を上げて知らせたのですが、その場所を「遠見番所」、火を焚くことから「火番所」とも言ったのです。
 冠船(冊封船、琉球国王を任命するためにやってくる中国皇帝のお使いが乗った船)や進貢船・接貢船が一隻見えたら峰火を一つ焚き、二隻現れたら二つ、異国船の場合は三つ焚いたということです。
 では、読谷山の「遠見番所」あるいは「火番所」というのはどこにあったのでしょうか。『読谷村史第三巻・資料編2』には「しらし、御嶽の名 座喜味城の西約五百メートルの所にあり、北方から西の方にかけて視界が開けていて、遠く海上を望むことができ、戦前は船送りの場所でもあったという」とあります。
 現場は、波平のアガリジョウ(東門)を出て東に進み、間もなく左の道路に入り、二、三百メートルほど行った右手の、民家の隣にあります。
 ウタキ(御嶽)は写真で見る通り、大きな岩の露頭があり、その前に香炉(こうろ)が一つあるだけです。ところがこの岩は、中南部で見るような石灰岩ではなく、あきらかに山原マージの中で見られる岩石なのです。
 さて、この「シラシ御嶽」ですが『琉球国由来記』の巻十四の項には「シラシ御嶽 座喜味村 神名イシデンノ御イベ」とあり、座喜味の他の五ケ所の御嶽等とともに「座喜味巫崇所」となっています。
 「シラシ御嶽」という名ですが、「知らせる」ということからきたのだと思われます。『読谷村史』
では、「同名の御嶽がここの外に、慶良間島座間味間切村(神名マシラジ)渡嘉敷間切渡嘉敷村(志良志御嶽神名シケカケ)・久米島具志川間切西目村(神名ヨキノタケ大ツカサ若ツカサガナシ)があり、いずれも狼火台として使用されたという。すなわち、国内船の帰航や、国外船の来航を発見するとのろしをあげて、いち早く首里城まで逓達して知らせたのである」となっています。
 以上のことからして、座喜味(地番は上地)の「シラシ御嶽」は琉球王府公設の「遠見番所」であったことは間違いないと思います。

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