国道五八号を北上し、喜名を超え、沖ハム工場を過ぎると旧親誌の集落跡が右手に広がって見えます。そしてさらに進むと、写真に見るような三叉路に差しかかります。
向かって右の方の四車線はご存じの国道五八号線で、一九七五年七月十九日、本部町で開幕された沖縄海洋博覧会(EXPO’75)に間に合わせるために、突貫工事で完成させた道路です。
左側の二車線道路は、写真中央部の看板にも見える通り、琉球村という観光施設前を通り恩納村山田へと伸びています。
この道路はもともと県道で、道路整備が行われ、馬車等の通行ができるようになったのは明治の末期と言われています。
明治四十五年三月六日の『琉球新報』には銀波生という人の書いた、次のような投稿文があります。
「有名な読谷山の多幸山道から(中略)難街道、剣の様な山坂道や灰お様な砂凹道、膝を没する潮渡り(見る方も無らぬ海と山と)などは今や批の辺からは昔の夢、恩納村字恩納迄は平坦々たる三間道、馬車と人力車は谷茶村の側まで通る云々」この文からすると、明治四十五年(この年に年号は大正と改まる、一九一二)になってようやく谷茶まで馬車や人力車が通るようになったと言うのです。
やがて戦争の結果沖縄はアメリカ世(アメリカ支配下の時代)となり、この県道は一号線と呼ばれましたが、日本復帰とともに国道五八号線と呼び名が変わりました。
写真の左の道をまっすぐ進みますと、なだらかな丘に突き当ります。丘を上がりどんどん進んで行きますと、琉球村の西側の山を降りて、次は現在の山田小中学校の校庭を突っ切って進んで行きます。
この道が俗に言う多幸山の道で、琉球王朝時代の中頭方西海道です。現代風に言えば国道といったところでしょうが、昔は宿道(しゅくみち)と言いました。当時の王府の規定によると宿道は、幅八尺以上で、左右に各六尺の余地をおくこととなっていたようです。
嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリー艦隊の探検隊は国頭での調査を終えて、読谷山に入りますが、彼等もこの宿道を通って来たと思われます。彼等の記録を見てみましょう。「道の大部分は荒れた草むらで、丘の間には沼のような窪地があった。私達は数回も猪の足跡を見た。それについて土民たちは沢山いると保証したが、我々は一匹もそれを見る幸運に恵まれなかった」
宿道には処々に一里塚をおいてあり、伊良皆のヒールーモーの次は、多幸山にありました。多幸山の一里塚は「多幸山入口から宿道に入った四百メートル位の所に位置」(『沖縄県歴史の道調査報告書』)とあります。
ここに立ちますと道は何も言いませんが、琉球王朝時代、大和世、アメリカ世、日本世と、世のうつろいが感じられてなりません。