読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1994年2月発行 広報よみたん / 7頁

【見出し】読谷山風土記(37)ティランジュ(照らし所)渡久山朝章

 辞書によると、通信とは「音信を通ずること、たより、知らせ、おとずれ」とあります。この中で「知らせ」ということを考えてみますと、相当広い範囲にわたります。
 離れた所では大声で呼び掛けたり、声が届かない所へは太鼓や鐘で合図しました。さらに音響が届かない所には火をたいて煙を上げました。それが狼煙(のろし)です。
 狼煉の話では、稲垣国三郎の『白い煙と黒い煙』がよく知られています。名護城の丘の上で老夫婦が、出稼ぎに行く孫娘の船を見送るために焚火の白い煙を上げる情景を描いたものです。
 今でこそ本土や外国に渡るには飛行機でさっと飛んで行きますが、戦前はそうはいきません。那覇港まで見送りにいくことさえ容易なことではありませんでした。
 それで身内の者や親戚・友人が旅立つ時、船が読谷山沖を通る頃を見計らって、見送りの煙を上げました。黒い煙を吐く船の上では、白い煙を見て、別れの気持ちが込み上げて来たことでしょう。
 狼煙はキビの枯れ葉に松やアダンの青葉をくべて、煙がよく立ち上るようにしました。
 読谷山では海のよく見える小高い場所、たとえば楚辺はユーバンタ、渡慶次は力タノー前の井戸端の森、伊良皆はハンタモー、大湾はトウキシヌ山等で行いました。(狼煙を上げる場所はフナウクイモーと言いました)
 ところで瀬名波の民話に「唐船照火(トウシンティラシビー)」ということがあり、それによると、「それは本部と読谷山にあって、本部で唐船が見えたら照火として小屋を燃やした。読谷山がその火を見ると同様に小屋に火を付け首里に合図し、同時に首里に早馬を出した」ということです。
 狼煙を上げる場所は、ティラシジュ(照らし所)などと呼ばれています。
 長浜の場合は集落の後方にあって、海を見渡す標高約七十メートルの切り立った崖の上にあります。写真の中央部がテラシジュ(照らし所)です。
 古老たちの話では、長浜港に出入する船、または近海を航行する船がある時に狼煙を上げた場所だということです。
 一帯はまた、ヤラジャーとも言われているようで、ヤラ(屋良)とかヤラザ(屋良座)は船をやるところ、つまり港ということで、長浜港と深い関係があることは言うまでも無いでしょう。
 ちなみに那覇港にも屋良座森城(ヤラザムイグシク)という砦(とりで)がありました。
 屋良座森城の碑には「国のようし、とまりのかくごのために、やらざもりのほかに、ぐすくつませて云々」とあり、「国の守備、泊(港)の格護のために、ヤラザモリの外に城つまた」と言っています。それからするとやラザとは、港の守り場、また見張リ場の意味もあったのではないでしょうか。

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