渡慶次小学校は瀬名波にあります。瀬名波にあって渡慶次小学校とは変だと思われるかも知れませんが、最初は渡慶次に設置されたのでそのような名になったのでしょう。
『読谷村誌』によりますと、「明治二八年(一八九五)、読谷山尋常高等小学校渡慶次分校として、渡慶次部落の民家を借りて設立する」とあります。(筆者註=読谷山小学校に高等科が設置されたのは明治三〇年)
『前掲書』にはさらに、新設された渡慶次分校には「四年制の二学級、学区は字高志保・渡慶次・儀間・宇座・瀬名波・長浜の六ヶ部落」と書かれています。
そして「明治三五年四月一日渡慶次小学校として独立する」と続き、明治六年に至って「学校敷地を現在地瀬名波一番地に決定し、校舎建設開始する」となっています。
渡慶次小学校というと、すぐ校庭の大ガジマルを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。 「このガジマルは明治三七年(一九〇四)に渡慶次小学校の創立三周年記念木として六ヶ字の上級生に各字に割当制で一本づつ植樹したもの」という字渡慶次の儀間玉永さんの記録があるようです。(『読谷村立歴史民俗資料館紀要第七号』「沖縄の中での読谷山の学校史」曽根信一論文)それからすると、このガジマルは今年、平成六年(一九九四)で満九〇年の樹齢ということになります。
渡慶次小学校で特筆されることは、沖縄県下で真っ先に障害児教育を行ったことです。このことは非常に大事なことですので、別に項を設けて詳しく紹介したいと思います。
渡慶次小学校はまた、児童の教育だけでなく、小使さん(用務員)から多くの人物を輩出させたじちでもよく知られています。
喜屋武真栄著『屋良朝苗伝』の中には次のように書かれています。「渡慶次小学校では、学校の使丁(小使さん)が独学で、上級学校へ進んだり、検定試験を受けて、先生になったりすることがつづいていました。そのはじまりは、村の大先輩である当山真志という人でした」
以下要約しますと、「当山真志は、使丁として働きながら、独学で学校の先生になる検定試験に合格し、立派な先生になった。
その後山内昌彦が、当山真志のあとをついで渡慶次小学校の使丁になり、この方もまた検定試験に合格して教員になった。
山内昌彦の後に用務員となった屋良朝苗は、勉学に励み、師範学校、高等師範学校へと進学して教職に就いた」ということです。
そのような裏には当然、渡慶次小学校の素晴らしい教育的雰囲気があったことでしょうが、、ここでは尽くせません。
こうした輝かしい業績を挙げた渡慶次小学校でしたが、昭和二〇年(一九四五)の沖縄戦で中断の止むなきに至りました。