読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1994年6月発行 広報よみたん / 6頁

【見出し】読谷山風土記(40)読谷山村道路元標 渡久山朝章

 国道五八号線の恩納村山田給油所前には緑色の交通案内標識板がかかっています。それには読谷村七キロメートルとあります。
 その地点からですと読谷村と恩納村の境界は一キロメートルもありません。それではあの交通案内標識板でいう七キロメートルとは一体どういうことでしょう。
 頭の中であの場所からの七キロメートル地点を考えてみました。
もし国道を七キロメートル南下しますと、比謝か大湾あたりになるかも知れませんし、喜名で右におれますと波平あたりになるのではないしょうか。
 かりに大湾か比謝あたりとしますと、読谷村全体を代表するには片寄り過ぎます。
波平はどうでしょう。波平には役場がありますし、村の地理的中央部にも近く、読谷を代表するにはうってつけです。
 あの交通案内標識板に書かれた七キロメートルというのは、役場までの距離ではないかと思って南部国道事務所に問い合わせてみました。
電話に出た職員によりますと「普通距離表示の数字は、案内標識板設置の地点を起点として当該役場までの距離である」ということでした。やはり役場までの距離だったのです。
 ところで役場といえば、沖縄戦の前までは喜名にありました。
戦後は一号線(戦前の名は県道、現在国道)から東側は米軍用地となり、建物等の設置はできなくなり、現在に至っています。
それで戦後は波平に役場はおかれたのです。
 戦前の役場敷地は、現在では新しい国道によって二分され、昔のおもかげはありませんが、表通り(現郵便局前通り)に面した門のかたわらに立っていた「讀谷山村道路元票」は今も残っています。
(写真)
 ポツンと立った面の粗い石灰岩の石柱で、字も大分読みにくくなっており、うっかいすると見過ごしてしまいます。
 戦前はこの「道路元標」を起点として、村内各地までの距離をはかっていたことでしょう。こうしてみますと、距離測定の際には、村内の場合は役場が起点となり、他市町村からの時は役場が終点となる(なった)と言えそうです。
 さて、この「読谷山村道路元標」はいつ頃立てられたでしょうか。
はっきりしたことは分かりませんが、「讀谷山村」ということがありますので、建立は明治四十一年(一九〇八)以後でしょう。
ということは、それ以前は「村」とはいわずに「間切」といったからです。
 「間切」から「村」という名に変わったのは、明治四十年に「沖縄県及島嶼町村制」が発布され、翌年四月一日から実施されたからです。

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