田幸山は読谷山と恩納の境目にまたがる山で、昔は交通の難所として知られました。
それは昼なお暗い険しい山道ということに加えて、フェーレー(追い剥ぎ)が出没し、通行人を脅して衣類や金品を奪っていたからです。
多幸暗山フェーレーてぃんどー
喜名番所(バンジュ)
に泊まらなやー
女のてぃらむん番所に
泊まいみ
急ぎすぎすぎ島かから
「多幸暗山は追い剥ぎがでるそうよ。(恐いから)喜名番所に泊まろうよ。(番所は男たちが努める所なのに)どうして女身で泊まることができましょうか。急ぎ急いで人家の集落があるところまでいそいきましょう」追い剥ぎも恐いが、番所の男たちも気が許せないと言うのです。
田幸山にはその他に恐ろしいヤマシシ(いのしし)もおりました。
田幸山のヤマシシ 驚
くなヤマシシ
喜名の高波平(タカハ
ンジャ)
山田戻い
恐ろしいヤマシシをものともせず、喜名の高波平(一説には高辺安座)は山田の美童(ミヤラビ)の許に通い、戻って来た、と言うのです。
高波平をうらやみ、でも勇気のない若者たちは、陰で次のように歌いました。
山田山田や ぬさる山
田が
我身(わみ)ん山田や
行じんちゃせー
山田、山田と言うけれど、山田が何さ、俺も山田は行ってみたんだぞ、とは言うけれどそれはヤマシシが出て来ない昼間行ったのでしょう。鬼のいぬ間の強がりです。
嘉永六年(一八五三)沖縄に来航したペルリ艦隊は五月三十日、沖縄島探検のため地質学者G・ジョーンズを隊長として十二名の探検隊を組織して六日間にわたる探検をおこないました。
途中六月三日に田幸山を通っております。「道の大部分は荒涼たる大叢林で、丘と丘との間には、沼のような窪地があった。我々は幾度か野猪の足あとを見た。島人たちは、これは沢山居ると我々に保証した。ところが我々は一匹もそれを見る幸運に巡り会わなかった」
さて、この写真はいつ頃の物でしょう。道路面が階段状になっていることから県道がまだ整備されてない頃のものでしょう。
山田の人で高等科に進学した人たちはこの道を通って喜名の高等(読谷山尋常高等小学校の高等科)へ通ったということです。
現在、この山は「多幸山」で表記していますが、元々は「田幸山」であったという人も少なくありません。人名には田幸はあっても多幸はありません。普通地名は人名に対応するものですから、多田幸が正しいかも知れません。この写真にも「田幸山」とあります。