戦前、比謝矼を通る県道を西に折れ、大湾を通り古堅にやってくると、道が二つに分かれました。右の道を進むと楚辺に至り、左の方は渡具知へ行く道でした。
この両方の道に挟まれて古堅小学校はありました。つまり、同校の敷地は、二またに分かれた道の角を頂点とした、三角形をしていたわけです。
分岐点は現在の比謝川ガス株式会社社屋の裏に当たります。そこに塀に囲まれた校庭の東の端の角にあたり、大きなデイゴの木が植えられていました。
学校への出入りに際しては、渡具知への道側に正門が開けており、楚辺へ行く道側にも小さな門があり、校長住宅や農場への通用門みたいになっていました。さらに西の方、すなわち、この三角形の敷地の底辺部に当るところにも裏門がありました。
それらの門も残したまま、昭和十年(一九三五)、この校地の東角に新しく正門ができました。
工事はデイゴの木を残し、根の方を土留めの石垣で囲み、チンマーサー(積み回し、現代風に言えばロータリー状)にしました。
こうして左右から新しい校門に向かう通路が開かれ、セメント張りされて現代的な門となり、新しい学校の顔となりました。
さて、このデイゴの木ですが、当時も枝をあたり一杯に伸ばしておおい尽くし、幹は写真で見るように太くたくましく、どっしりとした感じを与えていました。
写真は現在のものですが、校門工事の頃もやはり大きかったのですから、恐らくその頃でもすでに二、三十年は経ていたのではないかと思います。となりますと、この大デイゴは現在樹齢が八、九〇年にもなろうかと思われます。
周辺一帯は字古堅の集落でしたが、沖縄戦後の占領下で米軍家族部隊(モーガン・マナー)となり、地形はすっかり変わってしましました。
米軍からの返還後、一帯は読谷村古堅地区土地整理組合によって区画整理事業(一九八一年県知事認可)が行われました。
その時、このデイゴは撤去されるのではないかと心配されることもありましたが、古堅の人々のこの木に寄せる深い思いは、最初から残す予定であったということです。
(※同事業は一九八九年三月三十一日完了)
一九九三年、調査のために木の根の近くを掘りますと、かつての土留めの石囲いが出てきました。(写真の向かって右の方が渡具知への道で、左に進むと楚辺に行きました。)
このような思い出深い校門とその周辺を何とか残そうと、一部有志の手でミニチュアー作りが進められています。なお門柱は現在、古堅南小学校に保管されています。