読谷山村の海岸は珊瑚礁が発達しており、潮が引くと広い岩盤が姿を現します。
この岩盤から建築資材として切り出したのがハーマイシ(浜石)です。
石きり場跡は村内各沿岸に見られますが、特にその跡が集中しているところが写真で見る宇座の北浜屋ガラサイ崎です。
昔は、と行っても戦前までは庶民にとってセメントをはじめとする建築資材は、どれをとっても高価でしたので、近くにあるものを建材として使用することが少なくありませんでした。ハーマイシ(浜石)もその代表的なものです。
ハーマイシは、屋敷囲いの石垣や墓の積み石、畜舎の壁や柱、それに台所の壁などにも使われました。
柱にする石は八寸(約二十四センチ)の角の六尺(約一メートル八十センチ)で長さが六尺でした。
石垣用はチンバーといって厚さが七寸(約二十一センチ)に幅が一尺五寸(約四十五センチ)で長さが四尺(約一メートル二十)でした。
機械がない時代ですので、ハーマイシの切り出しは石切り道具を使ってもっぱら手作業で行われたのです。
作業はヒチまたはカニガラ(鉄挺)という先が刃になった約百五十センチの鉄棒で石を切り、下にイヤという短い石鑿(いしのみ)をさしこみ、チンシーという大ハンマーでたたいて割り起こしました。後はイシユーチ(石よき、石斧)で形をととのえたのです。
石を切った後は、割り起こすことが大仕事ですが、いったん割り取った跡はイヤが入れやすいことから、それぞれ自分の切り取り口を持っており、そこをだれそれのハカグチと言いました。
石切りは大変きつい仕事だったのですが、普通の日雇い人夫賃が日給六十銭であったのに対して一円五十銭の稼ぎがあったということです。それだけに、切り出された石は高価で、チンバーイシで積んだ石垣は、金持ちの家の石垣ということだったのでしょう。
石切り職人たちは労働をしているのですから、一般人より飲み物も食べ物も多くとりました。それで深くて大きな弁当箱にはイシジェークーベントウバク(石大工の弁当箱)と言い、湯飲み一杯になみなみとお茶をつぐことをイシジェークチジ(石大工注ぎ)と言う言葉もあります。
こうしたイシワザ(石業)が起こると、石切り職人、石積み職人、石を運ぶ運送業等々の新しい産業と職業が起こり、馬車も増えて農業その他にも多くの波及効果をもたらしたのです。
参考文献
宇座誌『残波の里』