渡慶次の公民館を出て、通りを左に進むと間も無く、写真で見るようなブロック囲いの石碑があります。
本部石灰岩の自然石を使ったこの石碑には「カタノー馬場跡」とあり、その前には馬場のいわれを記した説明板もあり、次のように書かれています。
「昔、首里王府の諸代官が残波岬へ狩猟に行く途中、一息入れるためにここ広々とした松林で競馬のけいこをしたことが渡慶次カタノー競馬の由来と語り伝えられている。
毎年旧六月二五・二十六日の両日、各地から飾り付けをしたヌイウマに羽織袴を着けた騎手が勢揃いし競馬が行われた。その本番に先立ち近隣二・三ヶ字の若者によりはだか馬の競走もあったが怪我人が出たため大正中期ごろからそれは中止となった。
競馬法は現今の速さのみを競うダービーとは趣が異なり、約六百米の距離を四つ足が順次着地する小刻み走法で、いわば競歩のたぐいである。騎手の手綱さばきと馬との呼吸を合わせることが勝敗を大きく左右した。
この競馬は村内外にも広く知られ、その日の来るのを一日千秋の思いで待ち、幼児・こども・老若男女は正月同様、晴れ着に身を包み、重箱を携え終日大賑わいを見せ、ことに道路東側の出店は子供達の夢を誘うものであった。
馬場の両側は松の大木が立ち並び、小高い丘陵地帯を形成し、その木陰にむしろを敷き壮観なヌイウマの雄姿や特長、騎手の技法等一部終始話題が尽きず、展開されるドラマに感嘆したものである。
終了後は角力大会がその場で催され、島内各地から力自慢の力士が集まり全島大会にも匹敵するものであった。
(後略)
この説明にもあるとおり、ここのウマ■ー(馬場)でのウマスーブまたはウマハラセー(競馬)はかなり有名で、大正四年(一九一五)八月四日の『琉球新報』も、「片野馬場は眺望絶佳夏海の深藍眼下に湛えザンパの巨岩にヒタヒタと寄せ来る波を望み加之(その上)に往昔各村は愚か首里辺よりも乗馬参集して盛んなる馬寄せを催せし由緒ある馬場にて候」と書いています。
また裸馬競走や角力大会、そして裸馬と自転車との競走への飛び入りも歓迎するとして次のよにも書いています。「裸馬競争の快挙を讃せらるる騎手の方々並に角力取組自転車対裸馬競争の飛入も大いに歓迎する由」
実際に裸馬と自転車の競走が行われたかどうかは知られていませんが、当時のようすがうかがえて楽しいものです。
このような催しは、今日風で言えば「まつり」とか「カーニバル」といったところでしょう。アブシバレーの日には楚辺カニクでも競馬があり、出店でにぎわいました。