読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1995年4月発行 広報よみたん / 11頁

【見出し】沖縄戦50周年記念企画 連載「私と沖縄戦」大湾トキ(楚辺一九二五)1 

関西の紡績へ
 単身飛び出す

 昭和十四年の暮れ、大湾トキは紡績工に憧れ、親の許可を得ず逃げ出すようにふるさとを離れた。十七歳であった。沖縄でも戦時色はまだなく、紡績帰りのお姉さん達がきれいな着物を着けて通り歩くのを見て、いつかは自分も行きたいと思っていた。当時の生活は、朝早くから起き畑仕事に出るか「ぼうしくまー」(帽子を編む)をするしかなく、沖縄をはなれてみたいとの思いを募らせていたのであった。
 家を出ると決めた前の晩に、幹下にトランクを隠し、朝四時頃起き出してそっと外へ出た。まだ暗いなかを古堅ガーを通って比謝橋に出た。嘉手納からは軽便鉄道が那覇まで走っており、それに飛び乗った。いま考えると「イジバーヤッテッサー」と振り返る。
 和歌山と大阪での一年間の生活で「ヤマトも沖縄のようにはないな」と感じ、帰郷する。昭和十六年の旧正月を終えた頃だった。親に内緒で飛び出して、また内緒で帰るのである。覚悟はできていた。

男装で畑仕事へ

 「勝手に出て行った物は、勝手に(大阪へ)帰れ!」。父はさずがに怒った。母と兄嫁がなかに入り「農業をするんだったら家においてやる」とようやく矛先を納めた。
 当時、働き手が出征し農業ができなかったり、傷痍軍人の家庭らの生計を助けるため、各班・各組ごとに「奉仕作業」があった。午前五時になると班長は大太鼓を打ちならし青年達を召集、その日の作業先を告げると、各々の組は畑へ向かった。一時間ほどの「奉仕作業」を終えると自宅へ戻り、簡単な朝食をとり家庭で畑に出ていく。これが日課であった。兄のズボンとシャツを失敬し、足には脚絆を巻き、ほとんど男身なりで「イキガイナグー」と言われるほどであった。

牛馬耕指導で中部一帯を巡回

 農業をするようになって、しばらくすると比嘉良平先生の指導で鋤の扱い方を学び、ついに「イナグンヤティンイルスル」といわれ女性として初めての実演者として村内、中部一帯、時には那覇の農業試験場までも手伝いに行くようになった。昭和十六年から十七年にかけてのことである。その間に、夫清之助と結婚、長男が昭和十七年十月に誕生し、牛馬耕指導から退く。

山原への避難
 そして捕虜に

 昭和十九年頃から米軍の空襲があり、その度にクラガーに子どもを抱いて避難、清之助は防衛隊として屋良に召集されていたため、家族ばらばらであった。そしてついに米軍上陸直前の昭和二〇年三月二十四日、楚辺のクラガーから山原へ避難することになる。四歳の長男を背負い、頭には荷物を載せての避難行は難渋を極めた。三日ほどかかって国頭村奥間の山中の避難小屋に到着。約一週間ほどしてさらに山奥へと避難する途中、義娘江利子が偶然父清之助を発見、家族が山原の山中で合流することとなった。防衛隊も戦況の悪化から山原へ避難してきたのだと言う。
 山原避難から二ヵ月後、五月二〇頃、恩納岳で捕虜となり、石川へ収容された。捕虜収容所での生活は約一年半も続き、昭和二十一年十一月の末、読谷へ帰った。
 今の時代はいい。好きなことを自由にやれるし、戦禍の中を命を掛けて逃げ惑うこともない、と大きめの眼鏡の奥にある優しい目が少し潤みながら、照れくさそうに微笑んだ。
(文中敬略、年令は数え年)
  =記念事業特別取材班=

 沖縄戦終結50周年にあたり記念事業の一環として、一年間をを通して「私と沖縄戦」と題してコラムを連載することにいたしました。今回、村民の方々のいろんな沖縄戦体験を戦争を知らない世代へ伝え、村民みんなで戦争のない平和を作ることをねらいとしています。

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