読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1995年5月発行 広報よみたん / 11頁

【見出し】沖縄戦集結50周年記念企画 「私と沖縄戦」2玉城トヨ(喜名三二〇の三)

 夫玉城万清とは幼じみだった。万清の家族は彼を喜名に残し、仕事の募集に応じてサイパンへ渡っていた。昭和三年のことである。トヨの叔母のところに預けられた万清はトヨの兄と仲良しで一緒に過ごすことが多かった。その後、昭和十一年になって仕事で成功を納めた父虎は長男の万清をサイパンへ呼び出した。万清二十一歳の時である。
 トヨは、昭和十三年二十一歳で紡績工場へ出稼のため沖縄を離れた。七ヶ月の紡績努めの後、兄を頼って大阪へ。二か年ほどして、トヨの家族もまたサイパンへ行くことになる。神戸の港を後にして、松田家も玉城家も激動の時代へ突入していく。
 昭和十六年、サイパンで日本人向けの芝居の興業が行われた。そこでトヨと万清は運命的な出会いをする。万清の母は、幼じみで気心の通じ合うトヨとの結婚を勧めた。小さい頃から気に入っていたトヨは自然に万清と結ばれて行った。再会したその年である。翌年、長女トシ子が生まれた。
被弾・生死をさまよう

 昭和十九年になるとサイパンでの日米の戦闘は激戦を繰り返す。満一歳になったばかりのトシ子を抱きながら戦場の壕を日本軍に追い出された。夫は、この子を授かるのにたいへんな思いをしたんだ、と銃を突きつける日本軍に激怒した。その前の年、二人は生まれたばかりの長男を失っていた。
 ある日、大きな木の下で横になりトシ子に母乳をやっているところを米軍の偵察機に見つかった。その直後、艦砲射撃が大木を襲った。トヨは右の肩、あご、上腕部に、義父は背中に被弾し破片は容赦なく身体の一部をえぐり取った。トシ子も他の家族も無事であった。近くにいた軍医がかごをつくる竹で傷口を押さえて奇跡的に止血することに成功した。夫の助けを借りながら負傷した二人ともども日本軍の通信施設のあった「電信山」に逃げ込む。義父はそこで息をひきとった。
 米軍は「電信山」にも侵攻し、ついに義姉とトシ子とトヨの3人はその場に残され、家族はばらばらになる。しばらくすると米軍の射撃でトヨは左肩にも被弾してしまう。アメリカ兵の通訳の話だと、男だと間違えて撃ったという。女だと分かって米軍は手厚く治療を施した。その日から八ヶ月におよぶ病院生活の始まりとなった。とても辛かったのは、逃げる途中で腰から尻に被弾したトシ子を同じ病院にいると知りながら面会を許されなかったことだ。ある日、壁に張り出された院内での志望者リストの中でトシ子の名前を発見した。

 命を支えたもの

 病院から離れているところにいた夫は妻の安否を気遣い、自分自身でわざと歯を抜き、病院へ連れて行くよう兵隊に頼み、病院での再会を果たした。その後義母も他界したが、健康を取り戻したトヨは、夫が働く地域での生活に入る。戦後貨物船に乗り沖縄へ、そして宜野座村にいる親戚を頼った。その後故里喜名に戻り生活を始めるが、苦難は続いた。頼りの夫が四十二歳でガンのため他界。負傷した身体の傷を持ちながら、女手一つで一男三女を育ててきた。
 何度も死にそうになったが、なぜか意識もうろうとするなかで墓の前まで来ては、まだおまえは中へは入れないと追い返された。トヨは「神に見守られていたような気がする」という。
 身体の傷が痛むたびに、あの頃の記憶が確実に襲ってくる。年を重ねても記憶はいつまでもついてくる。戦争は二度といやだ、トヨの目はそう私たちに語りかけていた。
         (文中敬省略)
 =記念事業特別取材班=

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