読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1995年8月発行 広報よみたん / 12頁

【見出し】連載 沖縄戦終結50周年記念企画 「私と沖縄戦」上原豊子(波平二六〇番地の一 当時九歳)チビチリガマ「集団自決」の様子を語る 父との約束を守った母

 戦争が近づいてきたなあと子ども心に感じたのは「十・十空襲」の時でした。日本軍がいつものように飛行演習を行っていると思い、外に出て大群でやってくる飛行機の様子を眺めていました。それがアメリカ軍による空襲だと気づいてからは、あまりの驚きで自分がどうやって近くの家族用の防空壕まで避難したのかほとんど覚えていません。その空襲のあとからは戦争に備えて急きょ防空頭巾を作りだしました。
 三月末、私たち家族はチビチリガマに避難することになりました。母と兄、弟、妹、そして母の親戚の方と一緒に避難しました。当初、私の祖父はそのまま家に留まっていたのですが、ある日母が食事を作りに家に戻ってみたところ、爆撃でけがをした祖父を見つけ、隣のおじいさんに手伝ってもらって、祖父をもっこに乗せ、チビチリガマまで担いで連れてきたのです。
 鮮明な記憶として刻まれているのは「自決」の場面からなんです。最初、どこかで「やられた一」という声が聞こえました。その後、ガマの中にいる子ども達を寝かしつけて、布団に石油を掛けて燃やし始めたんです。煙がガマの中に充満し、息苦しくなってきました。私は口と鼻を必死に押さえていました。ところで、記憶は定かではないんですが、ガマの中で「自決」が始まる前にアメリカ兵がやってきて、何かを持って「出て下さい。何もしませんから出て下さい。」と投降を呼びかけていたと思います。その後に「自決」が一斉に始まったように思います。
 ガマの中での「自決」の様子は鮮明に覚えていますが、その衝撃が強すぎて、前後の時間の流れがはっきりしないんです。何しろ、母が娘を包丁で…。注射で死のうとする看護婦さんに、我も我もと列を作り、順番を待つ人々。実際に私は注射をするところを見ていたわけではないのですが、人々が順番を待って並んでいたのを見ました。私の兄もその列に並ぶ一人でした。けれども、注射液が切れてしまったので兄はあきらめて戻ってきました。
 私たち家族がガマを出るきっかけになったのは、私は覚えていないのですが、アメリカ軍が上陸する前に、父がチビチリガマにやってきて、母に言ったそうです。「この戦(いくさ)は必ず負けるから、死ぬことだけはするな。自分は草むらを這ってでも帰ってきて、みんなに会いに来るからな。それまで、何としてでも子ども達を守ってくれ」と父は母に頼んだそうです。母はその時の父との約束を守るため、私たちを連れてガマを出たのです。たぶん、私たち家族が一番最初にガマを出たと思います。けれども、父は母との約束を守ることができず、戦死してしまいました。
 ガマを出たあと、大きな車に乗せられ、缶詰類の食事を配られました。私たちを乗せた車は、海に向かって走りだしました。「ああ、私たちは殺されて、海に捨てられるんだね」と、なかばあきらめた気持ちで車に揺られていました。ところが、実際に着いてみると、捕虜になった人々がたくさんいたので、ほっとしました。
 チビチリガマでの「集団自決」を思い出すとき、死と闘っているような、何とも表現し難い苦しそうな人々の悲鳴が耳から離れません。煙がガマの中に充満し、人々が包丁で刺し合う様子、注射を待つ長蛇の列…。そのような光景が、私の脳裏に焼き付いて離れないのです。沖縄戦終結五〇年。あっという間でした。世界中が争いをやめ、いつまでも平和であること、今はそれだけを願いながら毎日を過ごしています。チビチリガマに避難していたからこそ、私たちは助かったのではないかとふと、思うことがあります。どこか別の場所に避難していたら、爆撃で死んでいたかもしれません。チビチリガマという隠れる場所があったからこそ、生き残れたのではないだろうかと複雑な心境になることもあります。
-記念事業特別取材班-

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