九十一歳の私にとって、戦前・戦中・戦後にかけての字の歴史を振り返って話すのは記憶がおぼろげなところもあり、その点については、読者からのご理解ご協力の程をお願いし、お話をしていきたいと思います。
さて、私が第十九代の楚辺区区長になったのは、確か一九四四年の九月の頃だったと思います。それは当時十八代の区長をしていましたアガンチ小(屋号)の比嘉牛一氏が宮崎の方に疎開して行き、区長の席が空席となりました。その時は戦争が悪化しており、字にも友軍が密集しており、騒がしくなっておりました。そこで、早めに区長を選出するようにと区民からも苦情と要望が出され、緊急に戸主会が開かれ、補佐役にはヌンドチの大湾清ノ助氏が区長代理として当選し、併せて私は第十九代目の区長に選出されました。しかし、区長代理の大湾清ノ助氏は就任して問もなく兵隊に徴用され、区長の補佐役としては選任されたものの、十分補佐してもらえず、大変困りました。
いよいよ戦争もますます激しくなってきており、陣地からの空襲警報も多くなりました。空襲警報が発令されると、区民はそれぞれ指定された防空壕に隠れました。暗川には約四百名、ウカーには約三百名が、また、今の慰霊の塔の下の壕には約百名の区民が艦砲射撃や空襲から身を守るため避難をしておりました。尚、当時は五番組までに分けられ、避難場所も指定されておりました。戦火の広がりと共に、航空母艦が北谷の砂辺の浜に押しよせ、艦砲射撃が激しくなった時、私は現在の赤犬子宮に構築されていた高射砲陣地に呼ばれ、指揮官の村上少佐から「こちらに居ては危険でもあり、戦の邪魔にもなるので直ちに移動するように!」と命じられました。そこで私は各避難壕を回り、「恩納山でも谷茶の山にでも緊急に避難するように」と話をしました。当時は楚辺区に残っているのは年寄りと子供や女、病人の人しかいなく、健康な大人の男は兵隊に召集されていました。避難命令後は皆、着のみ着のままで歩いて避難をして行きました。尚、私と泉巡査が最後まで残り、その後私も北部を目指して避難をしました。
村が指定した避難場所の国頭村奥間山で、楚辺区のほとんどの区民が避難生活をしておりました。山での生活は、ある間は食べて、食物がなくなると馬を殺して食べました。それも尽きると、ソテツとかずらの葉を海水に入れて料理をしました。また、防空壕では、泣く子供がいると友軍から外に出され、危険な目にあっておりました。道のそばにはウジが出た死体もいっぱいありました。昼は敵の兵隊に見つかるので、夜しか行動が出来ず、たまたまその頃が雨期のシーズンだったこともあり、多くの避難民がハブに噛まれて死亡致しました。そのような生活は三ヵ月ぐらい続き、その後終戦を迎え、下山を致しました。
読谷村の警防団長の比嘉憲四郎氏から「あなたは区長だから、皆が下山してから最後に下山するように」と云われ、私も家族と共に最後に下山しました。下山した後、国頭村桃原には一ケ年ぐらいおり、その後、石川市に移動しました。石川市にはほとんどの楚辺区の人が住んでおり、住居はカバ屋ーでありました。その時に、カマーキナーグチの池原繁栄氏とイーナーカの伊波俊昭氏(元村長)、クシマチダの池原昌徳氏(元村長)、その他楚辺区の有力者が集まり、今後の楚辺区の発展について協議を致しました。その結果、生活の比較的に安定していた池原蒲吉氏(楚辺売店)を楚辺区の代表者に決定致しました。
石川市には約三ケ年居留して、その後旧楚辺の集落に移動しました。そして、旧集落で戸主会を開き、ウシーミヤー小の宮城善吉氏が楚辺区の代表者として選出されました。その後、区長と云う名称の楚辺区長にメーヒジャの宮城昌明氏が選出され、ようやく楚辺と云う字(自治会組織)が復活されました。
平成七年九月十三日口述
記録 上地栄