読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1996年2月発行 広報よみたん / 10頁

【見出し】<連載>沖縄戦終結50周年記念企画 「私と沖縄戦」 浦崎政夫(80歳) 池宮城シズ(67歳)名嘉山カマド(90歳) 吉山良子(66歳) -11-   

 一月号の長田に続いて戦後米軍基地として接収され戦後も古里に帰れない親志について語っていただいた。
 親志の集落形成は明治の廃藩置県後のこと。県内各地から入植した人々は相互扶助を生活の柱とした共同体を築き上げてきていた。

 土地がやせているうえ、肥料もろくになかったため農業で生計を立てることができなかった。広大な読谷山岳(村有地)を背景として林業で集落全体の生計をまかなっていた。住宅の屋根を葺く竹ガヤの注文が入ると全員で山から切り出し、屋根の骨格材の注文があると山に入る。そしてその代金が支払われるとみんなでソーミンイリチャーを作り酒を酌み交わす場を設けて分け合った。時期になればシークァーサーや山桃を収穫して売りに出た。竹ガヤなどの注文がなく苦しい頃には、男たちは日雇いの仕事に出、残った者は薪を取っては近くの集落に出かけデンプンカスと交換して「ンムカシメー」を作って食べ物を確保した。子ども達も喜名の分教場や本校(読谷山尋常高等小学校)から帰ると山羊の草刈をしたり子守をしたり、キビ畑の手入れを手伝ったりしていた。これが昭和初期から戦前までの親志の大まかな生活の様子である。
 村有地である山の管理のため、役場からは山守りの係が二名配置されていて昼中は親志の人々と一緒に山廻りをしていた。樹木一本も貴重な時代、そうした監視の目を逃れて泥棒もけっこういた。大がかりなものを除いて、そうしなければ生活の出来ない人々であったため、厳しく取り締まるといった感じではなかったと思う。
 小さい集落ながら正月の子ども遊び、二月二日の御願立て、三月の清明祭、四月のアブシバレー、五月の「四日の日」、六月の綱ひき、七月のエイサー、八月「一五夜」、九月九日の「上帝君祭り」など集落が一体となった年中行事も 連綿と受け継がれていた。特に「四日の日」は楚辺の兼久浜での馬ハラセー(競馬)を見に行くのが子どもの頃の一番の楽しみであったし、エイサーは全戸全員参加が義務付けられていて、四〇歳までの男は当り前であった。「御願立て」「土帝君祭り」などの時には共同で豚をつぶし、ご馳走を作ってみんなで祭りを祝った。誰かが家を作るときには、とにかくみんなが共同で作業を手伝い、一日では大方形は出来上がったし、畑を耕すのも共同作業だった。
 貧しいながらも相互扶助の精神が生きた生活をしていた親志にも戦争の荒波は確実にやってきた。日本軍の電波探知機が設置された為「山部隊」と「球部隊」が親志の集落に駐屯することになった。家は兵舎に取られ、男たちは徴兵で取られ、女、子ども、老人だけが残った。昼の仕事もままならず、夜とて落ち着いて寝ることもできない。
 こんなこともあった。ある日大きな鍋に芋をたくさん炊いていたら、兵隊がやってきて全部食べ尽くしてしまった。その家族は翌日から食べ物がなくなってしまった。
 戦場をさまよい九死に一生を得て帰って来ても、昔の生活は戻ってこない。家族や多くの親戚、友人も失った。戦後五〇年余、いま振り返ると一番悲しいのは、あの頃の助け合いや相互扶助の精神がなくなってしまったことだと思う。今は葬式ぐらいかな、みんなで手伝って一緒にやっているのは。とにかく集落が一致し、愛情を尽くしてユイマールでいろんなことをやった。いまはそうしたものがなくなった。
=記念事業特別取材班=
 現在でも、地域の絆を大切にしようとコミュニティの拠点としての公民館建設をめざし、その資金作り等に区民一体となって取り組んでいる。

利用者アンケート サイト継続のために、利用者のご意見を募集しています。