一、はじめに
沖縄はうりずんの季節を迎え、美しい花が咲きほころびております。
クリントン大統領をはじめ橋本首相におかれましては、四月十七日の日米首脳会談を終了されホッとされていることと存じます。どうぞ今後とも国民の幸せと両国の末長い発展のため御活躍されますよう祈念申し上げます。
さて、私の立場からは直接お目にかかって申し上げることは許されませんので、恐縮とは存じますが新聞紙上を通して沖縄県民の願いや問題点、更には基地返還の方法論等を申し上げたいと存じます。どうぞ寛大なお気持ちでお聞き下さいますようお願い申し上げます。そして沖縄の人々の願いや問題提起が秋の最終報告には反映されますよう御願い申し上げたく筆を執った次第であります。
日米首脳会談に先立ち、四月十二日午後八時、橋本首相とモンデール駐日大使は首相官邸で共同記者会見を行い、困難だと伝えられていた沖縄の最重要案件の一つ「普天間飛行場の全面返還(五年~七年以内)」に合意したとの突然の発表に沖縄県民は一瞬喜びを隠しきれませんでした。大きな岩が政治の力で音をたてて動いたのであります。
沖縄県民の盛り上がる世論を受け、日米両政府の思い切った判断であったと思います。クリントン大統領の訪日を目前に控え、政治的決断の必要性もあり短期間での決着であっただけに「普天間」の機能移設先については多くの問題点があり、これから申し上げます沖縄側の実態を十分に受け止め、最終的に沖縄県民が等しく喜び合えるような方策を講じていただきたいと訴えるものであります。
二、基地のたらい回しは許されない
普天間飛行場の返還合意を受け、今!沖縄県民の心は複雑に重く揺れております。
喜びの部分、大きな壁を乗り越えようという決意の部分もあれば、耐え難き屈辱と複雑で重苦しい部分、嘉手納飛行場の殺人的爆音と嘉手納弾薬庫の爆弾を枕に、五十年間も苦しみ怒りの日々を生きてきた人々がハこれ以上の爆音被害、基地被害を許さないという、人権の叫び、怒りの爆発が火山の如く、街から村へ、村から街へと大きなうねりとなって動きはじめた部分、この苦悩と苦汁に満ちた沖縄の現実を甘く見るのでな<、県民の心からの願いを秋の最終報告に生かして下さいますよう御願い申し上げます。
戦後五十一年目に入りました。もはや戦後の勝者、敗者の関係の時代は終わりました。しかし、占領時代のまま沖縄にある米軍基地はその規模、機能を含めて住民と混住状態にあり、そのような基地はアメリカ本国にも、日本本土のどこにもありません。そこに沖縄の米軍基地の異常性があるのであります。
日米両政府が本当にこれから将来にわたって日米友好親善を大事に、「良き隣人」関係を大切になさるとおっしゃるならば、基地問題にもっと真剣に、そして誠心誠意沖縄県民の立場を踏まえて取り組まれますよう訴えます。
返還にあたって、基地の機能を沖縄県内でたらい回しをするが如きは、沖縄県民の人権を無視し、侮辱しているとしか映らないのであります。
今回の「普天間基地の機能を嘉手納飛行場と嘉手納弾薬庫地区」に、その他中間報告で発表された県内移設案を見る限り、地権者や自治体の意思、県民の意思とは全く関係なく、日米安保、軍事優先の名の下に国家権力が一方的に押しつけるやり方がいつまでも通るとお考えでありましたら大きな間違いであります。憲法で言う主権在民や基本的人権の保障の精神が全く欠落していることに思いをいたすべきであります。
米軍による「移設条件」付き返還合意がなされながら、復帰後二十三年も経過して今尚、実現しない理由を考えると、一つにはアメリカ側の勝者的発想で基地の「移設先」を要求していること、二つ目は冷戦崩壊後も依然として「冷戦時代の発想」が変革されていないこと、三つ目は日本政府の米軍駐留に関する「思いやり予算しと言われております。
四つ目は日米両政府ともそれぞれの国益優先が一致し「基地は沖縄に封じ込め」と押しつけ、お互いに五十年間黙視してきたことであります。
そこに沖縄県民への特別な感情と差別が存在すると言わざるをえません。
三、国家によるイジメ
今回の普天間飛行場返還合意の記者会見をテレビで見ていて、喜び半分、怒り半分の複雑な心境でありました。無条件全面返還ではなく「機能移設」という条件が付いていたからであります。更に沖縄県の主人公は沖縄県民であるはずなのに、五十年も基地問題でイジメられ続けてきた主人公の意思は「機能移設」付きで抑圧し、「返還合意」を我が物顔で発表している姿は、あまりにもセレモニー的過ぎて、矛盾に満ちた沖縄の現実を悲し<思うと同時に、又これから闘いが始まるな一との思いでありました。
もうこれ以上我々を苦しめないでほしい。イジメないでほしいと思います。
アメリカは「普天間」を返還しても基地機能をそこなうことなく、五十年間使い慣れた古い家(基地)から新しく日本政府が整備してくれる家(基地)に移るという発想でおり、沖縄の人々の痛みなど到底理解しようもないのでありましょう。
移設先の「嘉手納飛行場」周辺地域の嘉手納町、北谷町、沖縄市では既にマスコミを通して御承知の通り、「NO」という反対の怒りに満ちた動きが確実に盛り上がってまいりました。この動きはこれから嘉手納飛行場そのものにも大きな影響を与えつつ進行していくことになると思います。
四、醜い米軍の要求…良き隣人は泣いています
もう一つ大きな問題があります。共同記者会見の中で「普天間飛行場の重要な機能を維持するため、沖縄に現存する米軍基地の中にヘリポートを建設する」と、さらっと簡単に流しておりましたが、これは時間が経つに従って「ヘリポート」という簡単なものではないことが判明いたしました。その対象地と言われているところが嘉手納弾薬庫地区の一部、読谷村、恩納村にまたがる国道五十八号以西のASP1といわれているところであります。
新たに滑走路を含め、三百ヘクタール(読谷飛行場は二百五十五ヘクタールです)の海兵隊の飛行場を作れという要求のようであります。今の時代にこの要求はまともでしょうか。
「日本全土を含む、全アジア、全世界を守っているのはアメリカであり、アメリカ軍の要求は聞くべきである」と言う米国側の、占領意識丸出しの強引な押しつけであるとしか沖縄県民の目には映らないのであります。
日米両政府関係者に申し上げたいことは、皆様が沖縄の (4ぺージヘ) 基地問題を議論します時は、地図を広げ、右のものは左に、左のものは右に、南のものは北に、東のものは西にと移設先又は代替地を決めているようでありますが、沖縄県民を何と思っているのでしょうか。地方自治体及び各市町村住民を何だと思っているのでしょうか。是非お伺いしたいと思います。
五、海兵隊の新規飛行場建設予定地の実態
米軍が要求しております海兵隊基地予定地の実情を申し上げます。
対象地の北側は恩納村(九千百人)で、宇加地、与久田、美留、塩屋、真栄田、山田等六つの集落と山田小中学校、琉球村(ハブセンター)、陽明福祉施設があります。更に恩納村は沖縄県内最大、日本唯一の亜熱帯観光リゾートホテル群のある地域であります。
南西部には読谷村(三万四千人)があり、喜名、親志、座喜味、波平、高志保、長浜等六つの集落と嘉名小学校、読谷中学校があります。その近くに読谷村の「人間性豊かな環境・文化村」づくりを目指した、伝統工芸の拠点「ヤチムンの里」があります。周囲にはアロハゴルフ場、沖ハムエ場が、更に二百八十ヘクタールの農地を対象とする大きな農業用ダムがすぐ近くにあり、対象地となっている一帯はダムの水資源酒養林地帯として大事に保全しているところであり、又、国道バイパスが計画されている地域でもあります。そして隣接して沖縄本島南北に走る幹線国道五十八号が走っており、更に座喜味城跡一帯には村立歴史民俗資料館と美術館が静かな環境の中にあります。
以上が対象地の実態であります。
日米両政府関係者の皆様方は基地内ならば何でも勝手に出来るという考え方があるのでしょうか。基地の内も外も土地は連続した大自然であり、人間生活の基盤なのであります。まさかこの一帯を無人の荒野とは思ってはいないでしょう。
戦後五十一年間、基地の島と言われたこの沖縄には基地をめぐる教訓が沢山あります。その一つが、五十年代の島ぐるみの土地闘争であります。
二つ目は、七十年前後の復帰闘争であります。
三つ目が、昨年の暴行事件、県民総決起大会、大田知事の代理署名拒否と今日に至る一連の動きであります。五十年間の怒りが爆発したこの歴史的なうねりは時代の勢いであり、人間の力ではくい止めることは出来ないのであります。
何よりも、恩納村内から米軍の「都市型ゲリラ訓練場」を撤去せざるをえなかった事例を日米の皆様方もお忘れではないと思います。恩納村のおじいちゃん、おばあちゃん達を中心とした地域住民が生活と自然を守ると立ち上がった果敢な闘いは感動的でありました。
このことは痛めつけられ、踏みつぶされ差別されてきた沖縄の人々であっても堪忍袋の緒が切れた時、五分の魂を引っさげ、人権を叫び、闘いを創り上げ、自らの歴史を切り拓いたということであります。