読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1996年7月発行 広報よみたん / 23頁

【見出し】村民抗議の中、訓練強行 10カ所にクレーター築く 座り込みで1時緊迫 米軍が再び訓練を開始

《米軍の滑走路損害査定》
 在沖米軍は十一日午前、読谷村の読谷補助飛行場で今年四回目の滑走路損害査定訓練を実施した。午前九時前、女性一人を含む十三人ほどの兵士らがバスで同飛行場に乗りつけた。兵士らは二班に分かれて十分ほどミーティングをしたあと、北から南に滑走路上を移動、損害状況を査定した。同訓練は、敵の攻撃による滑走路の被害を想定、修復するために、その損害を「査定」する訓練。滑走路上には約十個の土砂で作ったクレーターが設置されている。同飛行場には二五〇㌔、五〇〇㌔の模擬爆弾をはじめ、長さ一五㌢から二〇㌢ほどの数種類の砲弾が多数ばらまかれ、黒い球型の物体や古タイヤなども配置されていた。訓練に参加した兵士は、滑走路をヨコに広がって歩行し、念入りに被害状況をチェックしていた。この日は、過去三回の訓練よりも特に時間をかけて行われ、教官が詳しく説明、指導していた。訓練場の滑走路は海兵隊のMPや嘉手納署員らが警戒に当たり、交通規制した。

【読谷】「飛行場の演習で戦後、二人の村民が死んでいるんだぞ」。村民の強い抗議の中で、米軍の滑走路損害査定訓練が十一日午前再び強行された読谷補助飛行場滑走路上は訓練開始時刻とともに立ち入り規制が敷かれ、退去警告が出されたが、村民のシュプレヒコールは続き、一時緊迫した。一方、統一連などの民主団体もトリイ基地前で怒りをぶつけた。
 村民は午前七時前、山内村長を先頭に訓練現場の滑走路に集まり、座り込んだ。およそ百二十人。警戒に当たる米兵をにらみ、マイクを手にした飛行場地主会の池原昌繁会長は「むごたらしい戦争、異民族支配からのがれ勝ち取った本土復帰から十六年。この地は今なお戦後処理がなされていない」と訴えた。
 午前7時半すぎ、海兵隊員が「滑走路から出るように」と村民に通告。嘉手納署も再三にわたり、実力排除も辞さない方針で警告を発したが、山内村長は「防衛施設局や県の担当職員は隠れていないで出て来なさい。現状をしっかりと見て、いかに米軍が村民をぐろうし、裏切っているか上部に伝えてほしい」と抗議。前回にも増して強い姿勢のシュプレヒコールが続いたが、八時半、滑走路わきに退いた。

一九八八年(昭和六三)三月十五日、在沖米軍は再び前回と同様の「滑走路緊急修復訓練」を四月から定期的(毎週水曜日)に年間二十五回~三十回実施すると通報してきました。
 二年ぶりに再開するという今回の訓練には、前回同様の施設部隊に加え、「爆発物処理隊」(EOD)がマスクや化学防護服を着け、核有事を想定した大掛かりなNBC(核・生物・化学)訓練を実施するというもので、米軍は翌日から訓練の準備をはじめました。
 今回の新たな訓練内容に、村では「訓練の恒常化を狙ったもので、演習場の機能を固定化するもの」と猛反発。議会では直ちに「訓練中止に関する要請決議」を採択して那覇防衛施設局に対して抗議と訓練中止を求めましたが、施設局は訓練容認の態度に終始しました。
 四月六日午前、米軍は村民の抗議をしり目に訓練を強行。
 これに、村民百五十人の抗議団は「読谷を戦場にするのか」「損壊修復訓練やめろ」と、軍用犬を引き連れた米軍兵士と対峙し、東側滑走路(南側方面)で激しい抗議行動と座り込み闘争を行いました。
 同訓練は十三日、二十日、五月十一日、十八日と強行され続け、訓練に反対する村民は、米軍が訓練する度毎に座り込み抗議行動を展開し、常時百人~百五十人の村民が米軍と対峙し、演習を厳しく監視しました。
 米軍は五月以来、二ヶ月ぶりに滑走路損壊修復訓練(七月十三日)を再開してきました。
 折しも、この日は村長や村議会代表が上京し、防衛施設庁や外務省などに「演習場の撤去」を要請しているさ中の訓練の強行でした。
 村民は「もはや我慢の限界、体を張ってでも訓練を阻止する」との決意を固め、滑走路を占拠して米軍の全面にテントを配置し、実力闘争に踏み込みました。慌てた米軍は強制排除に乗り出し、また嘉手納署も再三にわたり退去通告を行いましたが、村民は頑として動じませんでした。
 翌週の七月二十日、この日も米軍は訓練を強行。集まった村民百人余が阻止行動を展開。これに県警機動隊が乗り出し、テントとともに村民を強制排除(ゴボウ抜き)したため、現場は一時大混乱に陥る騒ぎとなりました。
 これに激怒した山内村長は「警察権力が米軍に味方し、激化する演習を守るとは断じて許されない」と非難し、村民総決起大会を開いて日米両政府を糾弾する決意を固めました。
 八月三日午後六時、飛行場内の南側滑走路において「米軍の演習激化に抗議し、演習場の即時撤去並びに読谷飛行場用地の返還を求める村民総決起大会」が開かれ、参加した村民約三千人が、村民ぐるみで闘い抜くことを誓い、デモ行進で気勢をあげました。
 それ以降、米軍による滑走路損壊訓練は中止され、村民としても「米軍が訓練を断念した」と思っていたところ、一九九一年(平成三)六月十一日にまたしても訓練を強行しようとしてきましたが、この日は村民約四百人が、早朝から演習場周辺の十一カ所の進入路にピケラインを張り、無線連絡をとりつつ、演習場内に進入しようとする米軍車両を阻止する行動を繰り広げました。その結果、米軍も遂に訓練をあきらめ、訓練をすることなく引き返していきました。
 「一人の米兵も演習場に入れない。体を張ってでも阻止する」という村ぐるみの固い意志が、米軍の演習強行を断念させたと言えましょう。

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