※表 「滑走路修復訓練”鋭い剣”」反対の闘い
●1986(昭和61)
10月17日・読谷飛行場内で新たな演習「滑走路補修訓練”鋭い剣”」を開始することが海兵隊報道部によって明らかになる(在沖米海兵隊と米空軍の合同演習を18日~31日まで実施する)
・村議会の代表が那覇防衛施設局に演習内容をただすとともに訓練の中止を申し入れる
10月18日・米軍が、新たな「滑走路緊急修復訓練」を開始
・村議会が臨時議会を開き「訓練中止に関する要請決議」を採択するとともに、現場で訓練中止を求める
・村内15団体で構成する「米軍による読谷飛行場内での演習阻止実行委員会」が結成される
・実行委員会がテント小屋を設営し、徹夜(24時間)の監視体制に入る
10月20日・米軍が本格的に演習を強行。実行委員会がブルドーザーの前に立ちはだかり訓練を中止させ、米軍とにらみあう
・村長や議会代表が県や米海兵隊司令部、那覇防衛施設局に対して訓練中止の要請行動を行う
10月21日・村が那覇防衛施設局に演習中止を要請するが、施設局は「米軍に中止の要請はできない」と突っぱねる
・米軍は機動隊を導入し、演習を強行(以降、30日まで機動隊に守られながら、訓練を続行)
10月30日・米軍が二週間にわたる演習を終了
・実行委員会は現地で、米軍演習への抗議と総括集会を開く
●1988(昭和63)
3月15日・那覇防衛施設局から村に演習通報の連絡が入る(米空軍が4月から毎週水曜日に演習を実施し、年間25回~30回実施するとの内容)
3月16日・”敵の攻撃”で滑走路が破壊されたことを想定し「滑走路損壊修復査定訓練」の準備を始める
・村議会が「訓練中止に関する要請決議」を採択
4月6日・米軍が訓練を開始する。実行委員会の村民150人余が抗議行動に参加し、米軍と対峙し座り込み闘争を開始する
4月13日・米軍が訓練を強行。実行委員会50人で監視行動を展開
4月15日・村長が那覇防衛施設局に訓練中止を申し入れる
4月20日・米軍は防毒マスクや防護服を着装した訓練を強行。実行委員会150人が抗議行動を展開する
5月11日・米軍が訓練を強行4回目(実行委員会120~150人が抗議行動を実施)
5月18日・米軍が訓練を強行5回目
7月13日・米軍がNBC(核・生物・化学)兵器戦を想定した訓練を再開(6回目)。実行委員会150人は監視テントを設置し、座り込み闘争を開始
・村長、議会代表が上京し、関係省庁に演習場の撤去を要請
7月20日・米軍が7回目の訓練を強行。実行委員会100人が阻止行動を展開するが、機動隊が規制に乗り出し村民を強制排除する
8月3日・読谷飛行場内で「米軍の演習激化に抗議し演習場の即時撤去並びに読谷飛行場用地の返還を求める村民総決起大会」が開かれる。村民3000人が参加
●1991(平成3)
6月11日・米軍が3年ぶりに「滑走路損壊修復訓練」を実施しようとするが、早朝から結集した村民400人が演習場内への進入道路にピケラインを張り封鎖したため、米軍車両は演習場内に入れず、あきらめて引き返す(米軍が演習を断念)