読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

1996年7月発行 広報よみたん / 29頁

【見出し】読谷飛行場の問題解決のなくして 読谷村(旧地主)の戦後は終わらない

 読谷飛行場(二五五ヘクタール)は、第二次世界大戦の戦雲急を告げる一九四三年(昭和十八)の夏から計画構築され、北飛行場と言う名称で呼ばれていました。
 戦況は悪化の一途をたどる中にあって、旧日本軍は地主を戦前の読谷国民学校(現在の福祉センター・運動広場あたり)に集め、「戦争を勝ち抜くために、皆さんの土地を提供してほしい。戦争が終われば土地は返す」と、陸軍の将校と県警の保安課長らが出席し、飛行場建設の説明が行われました。
 当時の社会情勢のこと故、有無を言わさず一方的に「作る」と言うだけで、強引に土地は接収されたと言うのが事実であり、三、四回にわたって接収が行われたと言われている。
 結局、北飛行場は昭和十九年頃からは、作りながら戦い、戦いながら作るという上京であり、それは軍人だけでなく沖縄県内の人的・物的資源の全てを動員しての国家総動員法に基づく非常事態制の中で作られたと云われる。
 一九四五年四月一日、米軍の沖縄本島上陸地点が、読谷村の西海岸で、その日の内に北飛行場は米軍に占領されている。
 朝鮮戦争以前までは飛行場として使用されましたが、その後は空挺演習場となり、物資投下演習やパラシュート降下演習などが頻繁に実施されるようになり、一九六五年(昭和四〇)六月十一日にはトレーラーの落下で、幼い少女が圧殺されるという痛ましい事故が起きています。
 米軍占領下にあって二十七年、沖縄が日本復帰して二十四年の半世紀余にも及ぶ今日まで、私たち村民の生命や財産は絶えず米軍演習に脅かされ続けているのです。
 読谷飛行場用地(土地)は日本軍に接収された当時は、地主としての意思表示が出来る社会情勢ではなく、また敗戦後の土地調査の時は、米軍使用中の飛行場であり、布令七号に基づいて旧日本軍用地は米軍の財産管理下に置かれ、「地主からの申請は受付けするな」との指示がなされたと言われ、土地調査関係者も「受理できなかった」と言っています。
 アメリカ軍の統治時代は、アメリカ軍の財産管理官が管理し、日本復帰の時点で、そのまま日本政府(大蔵省)に引き渡され、未登記の国有財産として台帳に登載されたのです。
 この国の行為に、一九七六年(昭和五一)二月十四日、地主達は「読谷飛行場用地所有権回復地主会」を結成し、戦後処理としての読谷飛行場用地の返還を求めて村や議会と協力し、今日まで粘り強い返還運動を展開してきていますが、今だに解決には至っていないのが現状です。本土全体では二八一の旧日本軍用地(飛行場を含む)があったが、本土の事例では旧地主の意向と接収当時の状況を尊重しながら解決されております。

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