更に、過去幾多の事件・事故を起こしてきた読谷飛行場でのパラシュート降下演習は今尚強行され続けています。
米軍の占領意識丸出しのパラシュート降下演習に対して、毅然とした態度で立ち上がった村民の闘いは、一九七九年(昭和五四)十一月六日の夜間演習の事故を契機に始まりました。
この事故は、大添区の民家の至近距離に重さ7㎏の鉄コン付きパラシュートが落下するというもので、ひとつ誤れば人命に関わる重大事故であり、村民を恐怖のどん底に陥れるものでした。
事態を重視した村では、翌日、直ちに現場調査を実施するとともに八日には四十人からなる抗議団を編成し、那覇防衛施設局に対して厳重に①事故に対する謝罪と②徹底した事故原因の究明③危険な夜間演習の中止を求めました。その中で米軍は事故の原因究明もしないままに「十三日にも再び夜間演習を実施する」ことが明らかになったばかりでなく、米四軍調整官(在沖米軍の最高責任者)が「パラシュートは読谷飛行場から村民が持ち去った」と読谷村民を泥棒扱いしたコメントを発表し、この発言は、村民に対して”火に油を注ぐ”結果になりました。
この責任転嫁の発言と併せ夜間演習を強行するという米軍の強硬な態度に、村議会では臨時議会を召集して「事故に対する抗議決議と夜間演習の中止を要求する決議」を全会一致で採択し、また怒りに燃える読谷村では、村や議会、青年会や婦人会、老人会など村内十六団体で構成する「米軍落下傘降下演習中止並びに演習場の即時撤去要求実行委員会」(山内徳信実行委員長=村長)を結成し、米軍の夜間演習の予定日にぶつける形で「村民総決起大会」を読谷飛行場内の現地で開催。大会には村民1000人が参加して不退転の決意を表明しました。
これに、夜間演習の機会を窺っていた米軍も、村民の結集した状況に恐れをなし「演習を中止する」と表明して引き揚げました。しかし、米軍は無神経にも、再度演習を実施(二十日朝)すると通報。この横着な米軍の態度に激怒した村民は「村民の生命・財産を守るためにはもはや実力阻止行動以外にない」と決断し、全村民に演習阻止闘争への結集を呼び掛けました。
十一月二十日午前六時、日の出前の飛行場現地には、今や遅しと村民600人余がはち巻きやムシロ旗を掲げて陣取り、米軍の来るのを待ち受けました。
午前七時過ぎ、米海兵隊の訓練隊長・ハウズ大佐の乗った車が現場に姿を見せ、村民のスクラムの中に強行突入。これに激怒した村民が実力で進入を阻止し、車両を包囲したところ、今度は米軍と村民、機動隊とが相対峙するという一触即発の緊迫した状況に包まれました。
現場では「演習を中止せよ」と迫る抗議団と「中止できない」と主張する訓練隊長との間で交渉が行われる中、南の方から双胴型のOV10ブロンコ機が上空に超低空飛行で姿を現したかと思うと急上昇して突然に三人のパラシュート兵を降下させ演習を強行。余りにも突然の出来事に村民もあっけにとられ、あたりは一瞬沈黙が走りました。が、米軍の横暴極まる演習のありかたに激高した村民は、一斉に降下地点に殺到。演習を強行して逃げようとする米兵を取り囲み激しい抗議行動を展開。パラシュート降下地点は、逃げようとする米兵と、それを逃がそうとする機動隊、逃がさないとする村民とが入り乱れ大混乱となりました。
この読谷村民の圧倒的なパワーの前に、米海兵隊は一回きりの降下演習をしただけで演習を即座に中止し、村民が見守る中、恐る恐る引き揚げていきました。
実行委員会では、米軍が現場から姿を消すのを見届けた後、総括集会を開き、阻止闘争への突入宣言と演習反対実力闘争の勝利を確認すると共に、今後も村民が一丸となって読谷飛行場用地の返還に向け、勝利の日まで闘いぬくことを誓い合いました。
読谷村民の体を張った不屈な闘いは一九八〇年(昭和五〇)十月九日、第四四五回日米合同委員会の施設特別委員会において、「特別作業班を設置し移設作業をする」ことが合意されました。
しかし、その後においても米軍演習は村民の反対の声を無視して強行され続け、読谷飛行場内での演習内容もパラシュート降下演習に加え、ヘリボーン演習や滑走路損壊修復訓練が行われ、村民は米軍演習の度毎に、真っ向からアメリカ軍に立ち向かい、あらゆる戦術を駆使して闘い続けてきました。
読谷村民のアメリカ軍と闘う強い意志の根底には次の理由がありました。その背景には、アメリカ国民には四つの自由(言論の自由、信仰の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由)が保障されているのに、読谷村民には米軍演習によって『恐怖からの自由』が侵害されていることがあげられます。こうした軍事演習反対、基地撤去の行動が、一九八一年(昭和五六)七月十日、在日米軍司令部参謀長官補佐・フランクLデエイ大佐をして「読谷補助飛行場は狭くパラシュート演習には不適切。早急に移設が実現できるよう努力したい」という発言を導き出しました。
ところが、米軍側がこうした前向きな発言を行う中で、日本の外務省は「読谷飛行場の返還は現実的ではない」などと発言し、国民に顔を向けるどころかその顔は常にアメリカ側に向かい、忠実に対米服従の姿勢に終始しているのです。
主権国家としての誇りもなくアメリカに一言も物言えぬこの国の弱腰外交が、五〇年余の長きにわたって沖縄だけに一方的に基地を押しつけ、犠牲と差別を強要し続けていることを、私たち村民は決して見過ごしてはなりません。
昨年(一九九五年)五月十一日に、日米合同委員会で合意された「読谷飛行場の全面返還」を早期に実現させるためにも、村民の闘いは決して緩めることがあってはなりません。日本政府による基地施策は、その計画そのものの大部分が「県内での基地のたらい回し」であり、絶対に許せるものではありません。
普天間基地の返還に伴う移設先も、読谷村と恩納村にまたがる地域への新たな基地建設であり、我々は基地の拡張・強化を糾弾し拒否するため、私たち読谷村民は「村民総決起大会」(二十八団体で実行委員会を結成)を五月十九日に開催して明確に反対の意思表示を県内外に表明しました。
山内徳信村長は重大決意の下に去る四月三十日、アメリカのクリントン大統領や橋本首相宛てに「直訴状」を送りました。この闘いは、かつての島ぐるみ闘争を上回る戦後最大の闘いが予想されると覚悟したからです。
また子々孫々に、二度と再び戦争の悲惨さを体験させない為に、二十一世紀への希望のもてる平和で豊かな読谷村を築くため、山内村長と議会代表はこれまで四回にわたって訪米し、本村最大の課題である読谷補助飛行場を取り戻し、同用地の転用計画に基づく、”黄金の花咲くむら”づくりを推し進めるためアメリカ政府に直訴をしてまいりました。その成果は着実に前進してきています。
私たち村民は、心をひとつに「基地のない平和な読谷」「人間性豊かな環境・文化村読谷」を、一人ひとりの力を結集して築いてまいりましょう。
私たち平和を愛する読谷村民の心は、決して軍靴で踏み潰されるものではありません。