【読谷】読谷補助飛行場の跡地利用計画策定を進めていた読谷村(山内徳信村長)は平和の森球場一帯のパラシュート降下訓練場内に役場庁舎を移転させることを内容とした「村役場及び中央公民館建設基本計画」をこれまでにまとめ、既に那覇防衛施設局などを含めた日米関係者に対し、一九九六年をめどに役場を移転させる旨の説明をしていることが二十三日までに明らかになった。現庁舎は老朽化が激しく狭あいでもあることから山内村長は「九六年移転というタイムスケジュールは動かせない」と話している。
《施設局などに説明》
新庁舎の移転については一九九一年九月に村庁舎建設委員会が、九六年をめどにパラシュート降下訓練場内に新庁舎を建設することを盛り込んだ「庁舎建設基本構想」を答申しており、今回の基本計画は同構想を受け、建設計画、構造計画、設計計画などまで踏み込んでいる。庁舎移転で那覇防衛施設局などに説明がなされていたことが明らかになったのは初めて。
新庁舎は二〇〇〇年の推計人口を基に面積を六千三百平方㍍に決め、本年度で基本設計、実施設計を終え、九四年度に着工、九六年に移転する計画。
新庁舎の建設計画については那覇防衛施設局を含めた日米関係者に説明中で、施設局を通過すれば同局が現地米軍に了解を取るなどのステップを踏んでいくことになる。
庁舎移転について山内村長は「戦後造られた庁舎で老朽化が激しい上、人口増加により狭あい化し村民に不便と迷惑を掛けている。移転は急を要しており九六年移転のタイムスケジュールは動かせない」と話している。
同村は今回の基本計画と同時に読谷補助飛行場北側のパラシュート降下訓練場内に同飛行場の一割に当たる二十九万平方㍍の村民センターを配置する計画を盛り込んだ「村民センター地区整備基本構想」もまとめている。
《米軍基地内に新庁舎を 読谷村「文化のくさび」作戦 球場に続け》
「基地を撤去して人間性豊かな文化村をつくる」ことを中心的な政策としている沖縄本島中部・読谷村が、九六年完成を目指して、在沖米軍基地内に新庁舎建設計画を進めている。本土復帰以来、米大統領への手紙や現場との粘り強い交渉で、基地内に村施設を建設してきた。大は三万五千平方㍍の運動広場から、小は駐車場までさまざま。村民が、巨大な基地に対して「文化のくさび」と呼ぶ、この作戦は新庁舎建設計画でひとつのやま場を迎える。
新庁舎(三階建て)は、基地内の読谷平和の森球場のそばに計画中。今のところ敷地の返還の予定はないが、既に昨春、庁舎建設準備室を設け、今年度中に基本計画を策定、と米軍との交渉に備えた準備を進めている。
「文化のくさび」作戦が始まったのは七六年。同村によると、村の中央部に広がる米軍読谷補助飛行場で、米軍がP3C大潜哨戒機との交信用アンテナ施設建設に着工した。村民の阻止闘争は激しかったが、工事は六割を終え、村内にあきらめムードが広まった。
この時、山内徳信村長(五七)がカーター大統領に村民の基地反対の強い意志をつづった手紙を送り、白紙撤回にこぎつけた。七八年、米軍との一部共同使用名目で村の運動広場が誕生した。
また、五年がかりの交渉で、米陸軍特殊部隊グリーンベレーのパラシュート降下訓練場の一角にも、同様の名目で、二万五千平方㍍の「読谷平和の森球場」と多目的広場、駐車場を建設した。
村米軍交渉の要請文はすべて村長が書く。これに必ず、具体的な跡地利用策をつける。さらに、下級担当者から徐々に希望を伝え、軍内部の理解者を広げる。その上で軍幹部と交渉。多忙を理由に会ってくれない時は、トイレの前に座り込んで相手をつかまえて話をしたこともある。
こうした結果、復帰当時村内の七三%を占めていた村内の米軍基地は四八%に減った。
沖縄県基地渉外課の調べによると、昨年三月現在、沖縄全島で、日米が返還に合意しながら未返還になっている面積のうち、七三%の跡地利用計画が手つかず状態にある。
山内村長は「交渉は、科学的、民主的に。米国はやはり民主主義の国。議論をぶつけあい、こちらが正しければ、解決策はいつも米軍の方から出してくれた」という。