四月十五日、日本政府と米政府の間で普天間基地の返還が約束されたとき、僕は信じられたい気持ちとうれしさが同時にこみあげてきたことを覚えています。
戦争のための基地が少しでも減ってくれると思ったし、これからの基地撤去へのはずみになると思ったからです。
でも事実は、普天間基地のヘリポートを読谷村、恩納村の二つの村に移設するという内容でした。
このことを知ったのは、つい最近のことで、僕はショックを受けました。でも、もし移設されたらどうなるのでしょう。
まず、基地を作るために、祖先からの土地を強制的に奪われます。基地が完成すれば、騒音や墜落事故の心配で気の休まる事がないでしょう。また、飛行場建設予定地であるこの読谷村には、かけがえのない自然と、歴史と、文化があります。それら全てが失われます。
人は、環境に左右されると言われます。私達、読谷村民は穏やかで、すんだ心の持ち主と言われますが、基地の移設にともなう不安で、人々の心はすさんだものにたる事が予想されます。
僕の祖父の家族は、一九四五年の米軍上陸後にチビチリガマで六名全員が自決したそうです。今では、ガマの入ロの前に礎が建っています。祖父は、礎が建てられた時、刻まれた家族の名前を見て涙を流していました。
僕は戦争を直接体験していませんが、祖父の涙によってその悲しみが痛いほど伝わってきました。
戦争で、苦しみと悲しみを味わってきた読谷村民が、戦争を前提とする基地を許せるはずがありません。それに、移設は気休め程度の解決策であって、本当の解決策である基地撤去には、程遠いと僕は思います。
実は僕は、基地の存在について、それほど違和感を持った事はこれまでありませんでした。生まれるよりずっと前からあるので仕方がないと思っていました。でも、ふと「日常のすぐ近くで人殺しの訓練が行われている」と考えた時、とても悔しくなりました。でももっと悔しかったのは、それをどうする事もできない無力さを知った時です。
昨年十月二十一日に行われた県民総決起大会で、私達の一人ひとりの気持ちが一つになった時、不可能といわれた普天間基地の返還を勝ち取ることができました。
今回もきっと、村民が一丸となって立ち上がれば飛行場の移設をやめさせる事ができると信じています。
ここで声を大にして言います。読谷村に新たな基地は作らせません。私達と私達の将来のために、基地の移設には絶対に反対します。