プロフィール
『おもろさうし』に、”おざ(宇座)のたちよもい”と謡われた古い集落である。戦後は軍用地に接収されたため字長浜や高忠保地区に集団居住した。復帰後、軍用地が返還され、広大な残波岬公国が整備されるとともに、大規模な土地改良事業が実施された。また旧集落の基盤が整備され、現在充士戸程が移り住んでいる。残波岬公園に隣接して残波岬ロイヤルホテルと残波ゴルフクラブがある。行政区加入人口一千二百八十九人(三百一性帯)で、村内では規模の大きい地区である。
地区づくりの目標
海に迫り出した残波岬は、昔から「上り口説」にも謡われ、陸上からも海上からも共に航海の安全を祈願した象徴的な岬である。これまでの大規模かつ拠点的な開発事業の成果を最大限に活かし、全体的な利用構想の確立、開発施設を軸にした地域経営の推進や交流事業の拡大、この地域の自然条件にふさわしい環境・暴観づくり等を主にした”海を見渡す進取のむらづくり”を進めていく。
残波松林の復活
残波岬は北からの潮害が強いところである。かつては広大な松林があり、防潮林や薪場として共同利用されてきた。しかしながら、沖縄戦における米軍の爆撃や戦後の基地構築によって荒廃した。今後の残波後背地域の利活用のためには同程度の環境保護のための防潮林を必要としている。これまで海岸保安林及び道路沿いの植栽を美同で実施してきたが、今後も村民の参加と協力のもと、長期共同事業による防潮林造成を開始し、環境づくりを進める。
琉球史の偉大な人物”泰期”
洪武五年(一三七二年)に中山王祭度の弟として、初めて中国(明)に正使として渡った。彼は読谷村字座の生まれであり、優れた貿易家であったことがわかる。進取の気性に富み、琉球の火交易時代の先駆となった彼の偉業をテーマにした創作「進貢船」が読谷まつりの中で壮大に演じられている。