これに応え出席した代表らが次々に意見を述べました。
【池原昌富さん=楚辺】
「花栽培をしているが、軍用地内(トリイ通信)であるため時間上も制約があり、また土地改良ができず、灌水設備もないため生産が低下している。読谷飛行場は花卉栽培に最適と思う」
【池原昌和さん=楚辺】
「基地内では思うような農業ができず、西部連道の土地改良区の借地で農業をしている。一括して農業ができるよう一日も早く読谷飛行場を返してほしい」
【池原鈴夫さん=楚辺】
「台風などに耐えるような施設がなく、安心して農業ができ、使用できる土地がほしい」
【比嘉盛喜さん=大木】
「小規模のビニールハウスで野菜類を栽培しているため年間所得が少ない。規模拡大をしたいが土地がなく、もっと広いところで農業をやりたい」
【松田正巳さん旺伊良皆】
「土地改良をされてない小規模の土地で農業をしているため効率が悪い。読谷飛行場が返還されればそこで思いっきり農業をやりたい。夢は親父(所有権回復地主会員)が生きている間に、そこで農業青年が総合的にまとまって農業している姿を見せたい」との要望が提起されました。
これに、岡本補佐官は「読谷飛行場は二〇〇〇年までには返還されると期待を持っている。基地返還後の跡地利用に熱意を持っていることが理解できた。農業は産業の根元であり、農業に新しい付加価値を付けられるよう、出来るかぎりの努力をすることが我々の責務である」と応えました。
引き続き、残波ゴルフクラブの与久田満総務課長と読谷山焼北窯の松田共司の両氏が、返還軍用地における本村の跡地利用の事例報告を行い、懇談会を閉じました。
懇談会の終了後は会場を役場庁舎前テラスに移し、岡本補佐官一行と共に、更なる意見・情報が交わされ、和やかに懇親が深められました。
復帰の内実を問う「5・15平和行進」が十三日に県内三ケ所から一斉にスタートしました。
本土復帰満二十五年となる十五日までの三日間、行進団は沖縄本島を練り歩き、基地のない平和女沖縄の実現を訴えました。
平和行進団は、東コースが名護から宜野座、金武、具志川、沖縄、北中城を経て普天間へ。西コースは名護から恩納、読谷、嘉手納、北谷を歩き普天間へ。また南コースは那覇から糸満、具志頭、大里、与那原、浦添を行進して普天間へ向かうコースで行われました。
本村を通過する西コースには本土参加者が約四百人、県内から約三百人が参加。村内ホテルで宿泊した行進団は十五日午前、ホテルを出発して楚辺通信所(象のオリ)に向かい、ゲート前で怒りのシュプレヒコールを展開して軍事基地の撤去を訴えました。