プロフィール
中世期から続く古い集落である。戦後、米軍占領下で居住許可地域となり、多くの村民が帰村し共に居住することとなった。旧集落を貫いて軍道(現県道6号線)が既にあり、役場にも近く商店街や銀行、農協等が立地し、競谷村の中心的な通りとなった。西側の農地部分は長らく軍用地であったが、返還後土地改良事業により基盤が整備された。なお海岸線にリゾート開発が進行しており、関連でスタジオパークが開設した。行政区加入人口は一千六百九十五人(四百五世帯)で、村内では規模の大きな地区である。
地区づくりの目標
高志保は戦後、最初に帰村が始まったところである。これまで他字の人々の居住も受け入れながら読谷村の中心地としてその役割を担ってきた。今後は、懸案であった農地整備と調和して、現代の「新メンダカリ建設」といえるような住宅地の整備を軸に、ユイマールによる高齢者の相互扶助、コミュニティーの再構築をとおして、新たな時代をめざしたまちづくりを推進する。
高志保「花通り」づくり
高志保通りには、地酒の「まるたか」「残波」の酒造所があり、残波岬へのメインルートでもある。さらに高志保は読谷山花織の復興の地でもあり、これまでのカラー舗装に加え、村花であるブーゲンビレアの連続植栽や看板デザインの統一など、さらに長期的には建物の色調統一、立て替え時の建物セットバック等による質の高い商店街の建設をめざし、高志保「花通り」づくりを推進する。
与那嶺貞
昭和三十九年読谷山花織の復興に成功。昭和五十年沖縄県指定無形文化財技能保持者となる。当時の池原昌徳村長の強力な後押しを得て花織の復興に着手、沖縄県女子工芸学校で学んだ技能を駆使し、独由で地機(じ一ばた)から高機(たかはた)への切り替えに成功、複雑な文様の技法化と共に今日の花織の礎を築く。