1月27日
本村の山内徳信村長がこの度、大田昌秀沖縄県知事から県三役(出納長)への就任要請を受けて村長職を辞職。そして一月二十七日に開かれた県議会(臨時議会)において宮平洋副知事及び山内出納長の人事議案が賛成多数で可決され、翌二十八日に大田知事からの辞令を受け、県出納長に就任しました。
山内前村長は一九七四年(昭和四九年)七月、本村の第十七代村長として就任。以来、『人間性豊かな環境・文化村』づくりを目標に掲げ、日本国憲法の精神『平和主義、基本的人権の尊重、主権在民、地方自治の本旨』を基本に村政を推進し、村民と共に歩み続けて六期二十三年余にわたって読谷村の行政を担ってきました。
在任中における山内村政の村づくりは、「村民主体」「地域ぐるみ」「風土調和」の三原則を基本理念とした「二十一世紀の歴史の批判に耐えうる村づくり」をめざした夢とロマンあふれる街づくり、黄金の花咲くむらづくり運動でありました。
その条件整備としては、花と緑につつまれた平和と文化の香りのするむらづくり運動をはじめ、人づくりとしての教育諸条件の整備、社会福祉の増進、生活環境の整備、生産基盤の整備、文化・観光・スポーツ等に関する条件整備、雇用の場の創出としてのリゾート施設の地域環境と調和のとれた立地整備、地域経済の活性化等を推進し、村民の期待に応えるべく全力を尽くされました。 その村づくり運動の成果や実績は、村民の皆様方がよく承知のことでありますが、その足跡の一端を振り返ってみますと、基地の村にあっても日本国憲法の理念を基に、米軍アンテナ基地建設反対闘争やパラシュート降下演習反対闘争などに、日米両政府に屈することなく「読谷村の主人公は読谷村民である」という一貫した政治姿勢から、数々の基地闘争にも常に村民の先頭に立って阻止行動を展開する一方、四回にわたる訪米直訴を行い、幾多の困難を乗り越えてきました。その闘いの成果が、基地の中に建設された村運動広場や平和の森球場であり、村民待望の自治と平和の殿堂「役場新庁舎」の建設でありました。
文化村づくりの一環として取り組んできましたのは、読谷山花織やヤチムンの伝統工芸の振興であり、その活動拠点づくりでありました。文化施設としては座喜味城跡の復元整備と県内初の歴史民俗資料館、美術館等の建設であり、その運動としては「ノーベル平和賞を夢見る村民基金」の創設をはじめ、アソデパソダン展や読谷まつりの開催、各字伝統芸能の復興、小・中・高校生の活発な文化活動の展開に情熱を傾注しました。
産業振興にあっては、農業や漁業といった第一次産業の振興□発展こそが基本であるという施策を実践し、長浜ダムの建設や農漁業の生産基盤の整備に努めた他、商工業や観光産業の発展に向け、二つのリゾートホテルの誕生に大きく貢献してきました。
また福祉村づくりへの取り組みについては、「世の中は男も女も、健常者も障害をもつ人も、皆が手を取りあっていくことが大切」との考えから、「生き活き健康読谷村」を合い言葉に、村立の診療所や総合福祉センター、生き活き健康センターを建設する一方、各字公民館を福祉公民館として位置づけ、ゆいまーる共生事業などを行い、活力ある福祉活動を展開なされました。
そのような功績が高く評価され、本村は一九七五年に文化・福祉面における地域活動の業績で「第十九回沖縄タイムス賞」(自治賞)を受賞し、一九八四年には「潤いのあるまちづくり優良地方公共団体」として自治大臣表彰に輝き、一九八九年には「地域経済活動賞」(宮崎賞)、一九九一年には★『人間性豊かな環境・文化村』づくりが評価され、「全国優良町村」として表彰され、歴史に読谷村の名を刻んでいます。また今年の一月に発表された全国の首長が選ぶ「今後のまちづくりのモデル、目標としたい自治体」(元気な自治体番付)で、全国百七十三の自治体が候補に挙げられる中、県内では唯一読谷村が、基地返還と連携した振興策づくりのモデル村として西前頭十一枚目(西日本)に推挙されたことは、読谷村民の大きな喜びとするものです。
山内徳信前村長が絶えず強調することは、「汝の立つところを深く掘れそこに泉あり」というニーチェの言葉を引用し、自分達の地域が培ってきた歴史や伝統文化に自信と誇りを持つことが何よりも大事であると説きつつ職員を叱咤激励し、村政を担ってきました。その山内徳信前村長の行政手腕が内外から高く評価され、この度の県三役への抜擢となりました。
山内穂債村長離任
山内徳信村長の県出納長就任が決まった一月二十七日、村では同日夕、役場一階ロビーで「村長離任式」を行いました。
離任式には役場職員や村議会議員をはじめ、各字区長、老人会、婦人会、村内各種団体などから約三百人余が列席し、六期二十三年余にわたって読谷村政の発展に情熱を傾けてきた山内村長の労をねぎらうと共に、山内村長の新たな門出を祝いました。
大勢の人々が訪れる中、式場に山内村長がミサエ夫人と連れ立って姿を見せると、会楊には盛大な拍手が沸き上がりました。
式では、当真嗣清助役が山内村長のこれまでの業績を報告し、役場職員や山内村長の孫らから花束が贈られました。
山内村長の離任あいさつでは、村長として基地問題や福祉関係などに取り組んできた二十三年余の職務を振り返りつつも、議会や村民の協力に何度も感謝の言葉を述べました。
離任式終了後は、古堅中学校吹奏楽部の演奏が行われる中、出席者全員が花道をつくり山内村長とミサ工夫人を手拍子で見送りました。
花道を去る山内村長は、職員らの「長い間ごくろうさまでした」との声に、一人一人と言葉を交わしながら固い握手。笑顔で役場を去る山内村長に、涙を浮かべ、別れを惜しむ職員の姿もありました。(※なお、山内村長の離任式での挨拶は、「役場新庁舎建設記念誌」に掲載する予定です)。 山内徳信前村長は今後、苦難が待ち受ける県政に身を投じることになりますが、今後は県民のために英知を結集なさって県政発展のために職務にご精励なさることを祈念申し上げます。
六期二十三年余のご活躍、本当にごくろうさまでした。