沖縄ヘルーツを探る旅(外国人児童生徒保護者交流会=神奈川県)とは、沖縄から南アメリカに移住した日系人2世・3世の生徒が一度も行ったことのない沖縄を訪問し、沖縄の自然・歴史・文化を学び、親戚を尋ねながら「母なる沖縄」を知り、誇りに思う目的で始まった事業です。
本村は、平成6年から生徒の受け入れを行なってきました。
今年も8月10日に来村し、琉球(沖縄)の歴史、戦後の沖縄などについての学習や沖縄の海(残波村営ビーチ)で海水浴を楽しみました。
又、プラジル料理のフェジョアダ(豚肉と豆の料理)を懐かしく味わったり、夜の交流会では座喜味棒保存会の子ども達による棒の演舞鑑賞や琉球銀行読谷支店(山田親彰支店長)の協力でバーベキューを腹いっぱい食べるなど読谷の一日を満喫しました。
8月21日から2泊3日の日程で与論と奄美大島に護佐丸の足跡をたずねた。これは昨年12月に読谷村文化協会によって行なわれたシンポジウム「護佐丸文化園を探る試み」の報告書をまとめるに当たって、護佐丸と関係のある奄美大島における事跡を調べておくためである。メンバーはシンポジウム報告書編集委員長の古堅宗彦さん他五名。調査の方法としてこれら両島の郷土史研究家や役場関係の方々から、護佐丸に関する言い伝えや両島と琉球とのつながりについて聴取することにした。
奄美大島が琉球の直接的支配下に入ったのが1265年で、以後1609年の薩摩による琉球征服まで続いたといわれる。その間15世紀の中期から16世紀の後半までに琉球から何回か奄美諸島に征伐軍が出向いているが、護佐丸は座喜味城や中城城の築城に際して与論などから人夫の徴用もしている。長浜のユンヌンドーや中城の与武野原(ユヌン=与論)はこれら人夫たちに因んだ地名であると長浜の古老は語っている。与論では護佐丸は強くて怖い武将のイメージで伝えられている。たとえば昔は子どもが泣くと「護佐丸が来るよ」と言ってなだめ、体格の大きい強そうな子どもには「護佐丸のようだ」と評したという。
時間的制約もあり奄美大島ではそのような話は聞けなかったが、おそらく同島にも似たような言い伝えは残っているのではないか。
奄美大島と沖縄では風俗習慣や文化・芸能などに多くの共通点が見られるし、与論の方言は沖縄本島の方言によく似ている。与論は沖永良部島とは兄弟島の関係にあるが、交流は沖永良部島とより琉球との方が大きかったようだ。
織物は芭蕉布が古くからあるし、読谷山花織によく似たシュパやサジと呼ばれる浮織も残っている。戦前まで奄美諸島の砂糖キビは殆どが読谷山種であったという。
護佐丸と阿麻和利の関係には奄美諸島における経済的主導権争いがあったとの説もあるが、当時琉球と奄美諸島間ではそれほど交易が盛んであった。奄美大島の由緒ある家の系図には琉球関係の人物名が見られるとのことである。
奄美諸島は陸も海も自然環境が沖縄に酷似しており、その点では奄美諸島は鹿児島ではなく沖縄に組み入れた方がよりすっきりすると思う。琉球王や按司たちもそう考えたのではなかろうか。だとすれば琉球が奄美諸島を属領にしたのもうなずける気がする。
諸般の事情で奄美の他の島じまに足をのばせなかったのは残念だが、それでもそれなりの成果は得られたと思う。
素晴らしい報告書ができ上がるのが楽しみである。
終わりに今回の私たちの調査に、お忙しいなか貴重な時間をさいてご協力を賜わった与論と奄美大島の皆様に心より感謝申し上げたい。まことに有り難うございました。
(読谷村文化協会長長嶺善広)