◆耳ぐすい◆
読谷山花織 読谷村から産出する織物で、紋織りの一種。読谷山花織の起源は明確ではないが、南方諸国との貿易が盛んであった14、5世紀のころに、読谷の長浜港から直接南方文化が導入されたのにともない、織物の技法も入り、発達したと考えられる。花織は沖縄本島各地に分布するが、地域によってそれぞれ特色がある。元来の読谷山花織は木綿ものが多く、濃紺に染められた平織りの地に白・黄・赤・緑の色糸の紋が織り出され、裏地に紋部の色糸が大きく浮き出し、布は綿入れのような厚みとなった。これに紅型小紋の裏地をあてたものがあり、防寒着の役目を果たした。冬でも芭蕉衣を着用していた明治初期ごろまでは、この暖かい木綿の花織は庶民にとって贅沢品であった。現在読谷村立歴史民俗資料館に保管されている織物は、おおかた明治かそれ以前のものと思われるが、神詣り・ニービチジン(婚礼服)・米寿の祝いなどに着物の上からはおるウヮーボーイ(うわっぱり)、行事・祭りに着用したドゥーブク(胴服)やウッチャキー(袖なしの打掛け)に仕立てられている。
現在はヒャイバナ織りとティーバナ(縫取り)織りが多く、ミンサー、ティサージ、反物等が生産される。前者は平織りの本綜絖(ムトゥヒャー)のほかに紋織りの花綜絖を同時に用いて織り、紋様は経糸浮きと緯糸浮きとの2種類になる。後者は平織りのなかに色糸を手でさして織る方法である。大正から昭和にかけてまったく途絶えた時期もあったが、1964年(昭和39)ごろから読谷村の奨励により、後継者育成が始まる。75年3月県指定無形文化財となり、同時に読谷山花織事業協同組合が設立された、77年には通産省より伝統的工芸品の指定を受ける。〈大城志津子〉
『沖縄大百科事典』より