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2002年5月発行 広報よみたん / 2頁

ヤーガーの碑をお披露目

ヤーガーの碑をお披露目

宇座区(山内敏英区長)は、宇座遊水池工事により地域の形状を大きく変えており、そのヤーガーを偲んでヤーガー(ガマ)の碑を建立しました。
 三月十二日、関係者を集めてそのお披露目会が開催されました。
 主催者代表あいさつで山内区長は、「この碑の建立については、碑文の中に山内徳信氏がしっかり書き記しております。宇座区の基盤整備後、農耕地への冠水が多く遊水池を建設したのですが、ヤーガーのあったこの地は区民にとって忘れがたい場所であり、区民総意の下にこの地の歴史が刻まれています。碑をながめつつ色々思い出話に花を咲かしてください。」と経過と感謝を述べました。

ヤーガー(ガマ)の碑
 此の地(南側遊水池)に、「ヤーガー」と呼ばれた鍾乳洞のガマ(洞窟)があった。ヤーガーの入口は東に向き、間口は一〇M前後、奥行きは徐々に狭くなり、北方六〇M先に「アブグヮ」と呼ばれる裏口がある。
 昔は一帯に降る雨水は、宇座部落北の小川を通って、ヤーガーに流れ込み、その水の調整機能を果たしていた。
 沖縄戦(一九四五年)の時、このヤーガーは宇座区民の避難壕として利用された。
 ところが、区民にとってヤーガーは沖縄戦の忘れがたい悲劇の場所となった。
 上陸直前の三月二十九日午後三時頃、米軍機の投下した爆弾がヤーガーを直撃し、洞窟の岩盤が崩壊した。ヤーガーは一瞬にして阿鼻叫喚、地獄と化し、二十四人の尊い命が失われた。
 米軍は上陸後、旧宇座部落を含め、西海岸一帯を南北に向け「ボーローポイント」と称する飛行場を作った。二十七年間のアメリカ軍支配を経て、米軍基地から解放されるや、人々は跡地利用として土地改良事業や集落整備事業に取り組んだ。生まれ故郷に帰れたのは戦後三十九年(一九八四年)も経過してからであった。
 昔の宇座部落の面影は無く、自然環境も大きく変わってしまった。ヤーガーの元の姿は今はない。近年の豪雨はヤーガーの受容の限度をはるかに超え、溢れた濁流は周辺農地を浸食し、大きな被害をもたらした。その結果、防止策として、南側(ヤーガー跡)と北側に遊水池が建設された。この遊水池により、ガマ(洞窟)がなくなり、後世にその歴史を伝えるため、この碑を建立する。
  二〇〇二年三月十二日
       宇座区建立

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