読谷の民俗芸能1
組踊(1) 忠臣護佐丸
一四五八年(尚泰久三)、琉球における群雄割拠時代の終えんを告げる事件が起こりました。いわゆる護佐丸・阿麻和利の変のことです。このことは『球陽』という文献の「阿麻和利、護佐丸を讒害す」という見だしで掲載されています。つまり、護佐丸に謀叛の疑いありとの阿麻和利の進言により護佐丸は討たれるわけです。この故事を基に踊奉行に任命された玉城朝薫は初めて組踊を創作し、一七一九年「護佐丸敵討」を上演しました。
ところで、朝薫の「護佐丸敵討」とは別に地域には「護佐丸」「忠臣護佐丸」の題で組踊が伝承されています。
読谷村では、はじめに字喜名が明治三十九年に、続いて字座喜味が四十一年、字楚辺が四十五年に上演しました。字儀間の初演は不明ですが、昭和五年頃に上演されたといいます。字座喜味は字渡具知から台本を借りて上演したといわれることから、かつて字渡具知でも上演された可能性があります。
現在、字楚辺、座喜味、喜名で盛んに上演されていますが、字楚辺、座喜味及び他地域とは物語の展開に違いがあります。字喜名は他の地域に比べて長編で、乳母が国吉の比屋に助けを求める道行の場、成長した亀寿と乳母、国吉の比屋との別れの場が設定されています。字喜名、楚辺とも富永真一氏に指導を受けていますが、その違いの解明は今後の課題です。
さて、この仇討物語は大正、昭和期に入ると「阿麻和利と護佐丸」「阿麻和利」「阿麻和利の最期」の題で芝居仕立てとなり昭和十年には「史劇護佐丸忠誠緑」の題で無声映画も上映されています。
最近、新しい護佐丸・阿麻和利像をもとに創作発表された創作史劇「護佐丸」は「もともと護佐丸と阿麻和利は仲が良かった」という伝承と「阿麻和利の墓が読谷にある」ということを意識して書き下ろされ、来る六月二十五日に鳳ホールで完結編となる「人の巻」が上演されます。
文、文化振興課 長浜真勇