読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

2008年4月発行 広報よみたん / 2頁

読谷・一世紀の軌跡 さらなる飛躍へ…

間切の時代
琉球王府時代、地方の行政   区画には「間切」(現在の市町村にあたる)と「村」(現在の字)が置かれ、管理機関として間切には番所(役場)、村には村屋(公民館)が設置されていました。当時の読谷山間切は、今の恩納村宇加地から谷茶までを含んでおり、1673年(延宝元年)、恩納間切の創設にともない、これらの地域は読谷山間切から切り離され恩納間切に編入されました。
 読谷山間切番所は、当初、城下町である座喜味に置かれていましたが、1829年、街道筋の要所である喜名に移されると、以後終戦までの約110年間、喜名が近代読谷山の、行政、文化、産業の中心となります。

読谷山村誕生
廃藩置県後、ここ読谷山にも変革の波が押し寄せてきました。1879年(明治12)、『琉球藩』が『沖縄県』となり、さまざまな制度が組み込まれるなか、1908年(明治41)、『沖縄県及島嶼町村制(特別町村制)』が施行されます。これにより「読谷山間切」は「読谷山村」へ、従来の「村」は「字」と改められ、初代村長に座喜味出身の島袋盛助氏が任命されました。
 大正に入ると、村勢は独自の和衷協力の気運に向かい始めます。各字に自治会、婦人会、学校後援会等が設立され、村民の理解と信頼を得る仕組みづくりが行われます。また、「原山勝負」と呼ばれる催が開催され、農産業、学事、納税等、さまざまな活動が優秀な字には優勝旗が授与されるなど、字の団結・自治精神の涵養が高まりました。
 一方、主産業の農業ではサトウキビや甘藷が多く栽培されていました。サトウキビでは、病害虫に強く多収量の「読谷山種」を作りだし、甘藷では、品種改良した「佐久川」や「暗川」などを生みだすなど、農業では進取の気質を持つ村として県内に知られるようになります。また、比謝矼には、古くから山原船が往来する比謝港があり、牛市が開催されるなど商業が発達します。1922年(大正11)、那覇から嘉手納間に鉄道が敷設されると、嘉手納に近い同字では鍛冶屋や料亭、旅館、生活雑貨店が軒をならべる一大商業地を形成しました。

米軍上陸
沖縄戦が近づくなか、村当局は村民を疎開指定地の国頭村へ避難を行います。国頭村奧間に仮村役場を設置し、各字単位の集団避難を実施。各避難地では区長をおいて地元と緊密に連絡を取るなど、食料の配給や村民の安全の確保に努めました。しかし、はじめは確保することができた食糧も次第に確保が難しくなり、栄養失調なるものや、流行したマラリヤにかかるものなど、多くの村民は窮状と病に苦しみました。

読谷山村から読谷村へ
終戦後、難民収容所に収容されていた村民をいち早く「生まれ島」へ帰村させようと、第9代村長知花英康(第4代)は、1946年(昭和21)、胡差(現沖縄市)に読谷山村仮役所を設置し、各地区に散在している村民との連絡、帰村の準備計画を進めました。
 他の村は避難地や収容所から自分の郷里に帰っていきましたが、読谷山には米軍基地が多いため帰村がなかなか許されませんでした。村民の切なる希望と沖縄民政府の働きかけによって帰村が一部許されると、知花村長は、読谷山村建設隊を結成し村の再建に取り組みました。また、村の新発足と共に、心を一新して権威ある村を造っていこうと、村名を「読谷山村」から「読谷村」に変更、村役場を波平へ移転し、戦後の復興へと狼煙をあげました。

戦後から平成へ
1976年の帰村から5次にわたり、ほとんどの村民が村へと戻ることができました。しかし、アメリカ軍の都合で他の地区へ再び移動させられるなど復興は苦難の連続でした。また、読谷補助飛行場では、米軍によるパラシュート降下訓練等が実施され、人命を奪い、家屋を破壊し、農作物を踏み荒らし、児童生徒に恐怖を与える事件事故が多発しするなど、村民は軍隊と隣り合わせの危険な生活を余儀なくされてきました。
 そうした中、読谷村では、「読谷村の主人公は読谷村民である」を掲げ、「平和の郷」「自治の郷」を目指し、さまざまな基地返還の運動を続けてきました。1995年9月(平成7)に起こった米兵による少女暴行事件に端を発し行われた「沖縄県民大会」は、日米両政府を動かす世論へと発展し、同年11月には「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」が発足。沖縄の米軍基地を整理縮小する為の作業が精力的に進められることになりました。読谷村においても、読谷補助飛行場・楚辺通信所・瀬名波通信施設の返還が提示され、2006年7月(平成18)、読谷補助飛行場の一部返還に続き、同年9月には瀬名波通信施設、12月には、楚辺通信所及び読谷補助飛行場が全面返還され、いよいよ本格的な跡地利用の実現へと大きな第一歩を歩みはじめました。
 一方、村民は伝統芸能の復活と継承にも乗り出しました。明治半ばに技術が途絶えた「読谷山花織」を復興させ、その継承者として與那嶺貞氏が人間国宝に認定。暮らしの中から生まれた芸能は、成年祝、エイサー、綱引き、獅子舞などの伝統行事として各字で復活しました。また、壺屋焼の金城次郎氏、琉球紅型の玉那覇有公氏らが、各地から読谷村へ居を移し、伝統工芸の発展に大きく寄与しています。

「平和の郷」「自治の郷」を築く村づくり
村政施行から一世紀。貧困や戦禍・米軍統治、本土復帰など、様々な問題に直面しながらも、村民が相互に和衷協力し、先見の目を持ち、先取の気質で「平和の郷」「自治の郷」読谷村を築いてきました。そして21世紀を迎えた今、読谷村は、地方分権や権限委譲など、行政のありかたも大きく変わろうとしています。
今年は村制施行から100周年を迎えます。先人たちが築き上げてきた礎の上に、さらなる飛躍に向けた新しい一歩を踏み出す時期を迎えています。

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