読谷の民俗芸能 46 アシビトゥイケー
中部の各村には、民俗芸能に係る慣習である「アシビトゥイケー」がありました。以下、平成元年の調査をもとに「アシビトゥイケー」について述べます。
一種の芸能(村アシビ)交流会であり、世果報(ゆがふー)を念願して実施される行事である。一方の村のムラアシビの演目をそっくり相手の村のアシビナーで演じ、相手の村に披露する。演技者のみだけでなく、老若男女字民がこぞって交流相手の村に乗り込み、酒、御馳走の接待を受けるところに大きな特徴がある。
「アシビトゥイケー」は、読谷村、嘉手納町、北谷町、沖縄市池原における一般的な呼称であるが、「村ビレー」(うるま市勝連)「イーゲーシ(結返し)」(恩納村字恩納)もある。
他に特に親しくつき合っている村の役人、演技者、友人などを招待する「ウンチケーアシビ」、布令(広告)を出して他字からも寄付を募り挙行される「寄付アシビ」なども、アシビトゥイケーに連なる慣習だと考える。
実施にあたっては、通常、ほぼ同規模の村と村の合意が基本であるが、例えば、トゥイケーの帰り道に旗頭を取られた村は、取った側の村と否応なしにトゥイケーをしなければならないという慣習もあったと聞く。
経費の調達については、読谷村字楚辺における昭和三年の例を取れば、各戸一円五十銭を徴収している。その他に豆腐、むしろ、薪なども割り当てている。
アシビトゥイケーは、読谷村の古老(明治二十七年十二月六日生)が自分の親の代も、催したと聞いていることや、およそ三〇〇年前に村アシビを読谷村楚辺まで興行したという西原町幸地の伝承(西原町史編集室)からすると王府時代から行われていたと思われ、昭和三年で幕を閉じている。
私の調査によると、中部を中心に北は名護市、宜野座村、南は浦添市まで分布しています。その分布状況をみると、現在エイサーが盛んに行われている地域とほぼ重なります。エイサーとムラアシビのどちらが先行形態であるか、まだ確定できないが、エイサーが全般的に字外さらに村外までも巡っていることを思うと、アシビトゥイケーの発生、分布はエイサーと何らかの関わりがあったと考えられます。読谷村は特に盛んで、村内はもとよりうるま市石川、うるま市天願、宜野湾市方面まで交流を広げています。
文・沖縄藝能史研究会会員 長浜眞勇