外務省所蔵の「移民下附表」に見ると読谷村からは、1904年(明治37)のメキシコへ渡った冨着宮守(大湾)、池原守八(古堅)の海外渡行を皮切りに、ハワイ・ニューカレドニア・南米各国・フィリピン・南洋群島などに多くの村民が海外に雄飛し、1935年(昭和10)の統計資料によると、海外移民の数は645名を数えました。
村民が移住した背景として、多くの村民がサトウキビ栽培や自給自足を営む農家で台風や干ばつなどの影響を受けやすいため厳しい生活が続き、ついに1929年(昭和4)に起きた世界恐慌の影響を受け黒糖の価格が暴落し、「ソテツ地獄」と呼ばれるばど生活が困窮したことがあげられます。
移住先では、習慣の違いや朝から晩まで続く労働。厳しい生活環境に耐え、やり<りしながら故郷にいる家族に送金を行いました。沖縄戦が終わると、移住者たちは廃墟と化した沖縄へ多量の物資き送り、戦後復興の援助に多大な功績を残しました。
最初の移民が始まってから100年余、今では3世、4世と故郷を知らない子孫が増え「ユンタンザ」の思いが希薄化し、次世代への継承が難しくなっています。
読谷村では、「ユンタンザンチュ」の誇りを次世代へ継承するため、平成5年度から海外移住者子弟研修事業を行い、これまでにブラジル・アルゼンチン・ボリビアから26名の研修生を本村で受けいれ、語学研修のはか、三線やエイサーなど沖縄の伝統的な文化も学ぶことによって、読谷村と南米移住者を結ぶ架け橋となっています。