読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

2009年8月発行 広報よみたん / 6頁

命の尊さ(村長賞)古堅中学校 三年 四組 屋宜 奏

 今から六十三年前の四月一日、私達の住む読谷村渡具知の浜を中心にアメリカ軍は上陸しました。この時を機に緑が青々としげる美しい沖縄は、雨のように爆弾の降りそそぐ地上戦の場と化してしまったのです。
 村内には、チビチリガマ、シムクガマという二つのガマがあります。この二つのガマでは、とても大きな違いがありました。それは、チビチリガマではガマに居た百四十人中八十三人が自決という形で命をたち、一方のシムクガマでは、ほとんど命をおとすことなく助かったのです。二つのガマでこんなにも差があることに、私はとても驚きました。
 戦時中、人々は山原の山へ逃げたり、お墓の中へ隠れたりと大切な家族、自らの命を守る為にあちらこちらを命からがら逃げ回ったそうです。
 私は、小学校六年生の時、平和劇をしました。それをみていた私のおばぁが涙ながらに、初めて戦争について口を開きました。
「さぁ、どんなだったかね。もう忘れたさ。」と口を閉ざしていた、あのおばぁが、「あんた達の劇見て、言わないといけないと思った。今はこんなに平和な世の中なのに、昔のあんな出来事は言えなかったさぁ。」そう言って、戦後六十数年、誰も聞いた事のない話を、おばぁは語り始めた。
 ある日、教室の上を飛行機が旋回し、慌ててカーテンを閉め隠れた事。戦時中に崖の下をはいずり逃げまどった事。戦後、おばぁは生きる為、食べる為に混乱している中、家族を支え、学校へも行かず寝る間も惜しみ餅を作り、毎日十五キロ先の町まで売り歩いていました。周りを歩く人々は腹を空かせるあまり、着ている物を餅と交換する事もよくあった。着る物もなく、ふんどし一枚の男の人に
「今、着ているふんどしと、餅を交換して欲しい。」
と言われ、あまりにも哀れでふんどしをもらわずに餅をあげたそうです。おばぁは、「戦争がなければ学校に行って勉強できたのに。勉強したかった。」とよく言います。
 今、世界では、おばぁの経験に似た同じような事が起こっていますが、けっしてそんな事があってはいけません。おばぁと同じく、命の尊さを願う戦争体験者であり、シムクガマやチビチリガマから生き残った人達は言います。
「戦争は、いきなり起こるのではない。小さな出来事の積み重ねなのだ。今はまた、危険な道を半分以上も進んだ気がする。若者よ、私達と同じ過ちをおかしたくなければ、自ら危険を取り除きなさい。」
 日本には、憲法第九条があります。憲法第九条は、戦争をしない、軍隊をつくらない、武力を持たないというすばらしい憲法です。しかし、この憲法が出来てなお、沖縄の空は戦闘機が飛び交い、空砲が鳴り響いています。そんな小さな出来事が体験者の言うように、戦争へとつながっていくのです。
 私達が出来る事。それは、戦争を二度と繰り返さないように、命の尊さを身をもって教えてくれた体験者の想いを伝えていくことではないでしょうか。

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