読谷村史編集室 読谷村の出来事を調べる、読谷村広報データベース

2009年12月発行 広報よみたん / 17頁

読谷の民俗芸能 53 喜名棒

読谷の民俗芸能 53 喜名棒

 喜名棒がいつ頃誰によって伝えられたか、はっきりしたことはわかりません。古老の話によると、王朝時代首里から派遣された地頭が喜名番所に赴任し、村の若者たちに教えたのがその始まりと言われています。喜名棒はジジンドウ、チキン棒、ヤイ(槍)棒の三つの型からなっており、「牛若」と呼ばれる組み手もその一つであります。継承者の間では喜名棒は首里の役員によって伝えられたことから首里の手と言われています。「ケンカ棒」と呼ばれるほど打ち合いが激しく、スピード感溢れる連続技が特徴だと言われています。チキン棒は津堅手(チキンディー)の流れと思われ、字座喜味、字波平、字長浜にも津堅手は伝承されています。また、「牛若」は、字宇座にも同じ名称があり、字宇座の場合前後に飛ぶ動作が特徴で比較して鑑賞する興味も湧いてきす。ジジンドウの意味はわかりません。
 喜名では、昭和十一年まで毎年旧暦七月十六日、アシビナーの広場で棒が演じられるのが恒例になっていました。その日はハタスガシーとも言われ、夜になると村芝居をする慣わしになっており、その村芝居の前座として棒術が披露されました。ハタスガシーは旗頭を持ち、芝居衣装を身に着け、字内の拝所を結ぶ道路を練り歩きます。旗頭を守るように数人の棒の使い手が囲みながら行進します。拝所においては、二組ほどの組棒が演じられます。その後、十五歳以上の若者全員がアシビナーに集まり棒を演じました。マチ棒(円形を作る演技のこと)は、若者全員が参加しましたが、組手として演ずるのは十二~十三組くらいであったようです。昭和の初め頃まで棒を演ずる者の装束はウッチャキを羽織り、ウッチャキの上から紫か黒の帯を左腰に結び、頭には手ぬぐいの鉢巻きを前結びにしました。戦争を境に一時演技が見られなくなりましたが、一九七七年(昭和五二年)吉田正徳氏の指導により喜名棒が復活しました。現在継承されているのはヤミウチの型ですが、なぎなたと槍を使う「牛若」伝承されています。
 前述したように喜名以外でも旧七月十六日に字の各所で棒を演じる場合がありますがこのことは、民俗習慣を知る上で貴重な素材です。南風原町字喜屋武のクーヤーガ村はずれで太鼓や鉦を打ちならしトゥムゾーローを追い払う行為などと同じ意味を持つのが研究課題にしたいと思います。

文・沖縄藝能史研究会会員
長浜 眞勇

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